何をしても楽しくない。充実感が得られない。人生に「物足りなさ」を感じている人は少なくないでしょう。この感覚はなぜ起きるのでしょうか。じつは、右脳の働きが抑え込まれていると、「感動できる心」が失われてしまうといいます。右脳の力を取り戻し、幸せを感じられるようになるための方法とは?
※本稿は、枡田智著『右脳におまかせ! 見える世界が変わる「5日間レッスン」』(大和出版)より一部抜粋・編集したものです。
人生の味気なさから脱出するには?
現代人の人生の質(QOL)を下げている大きな原因は、
体験を味わう力が落ちていることです。
私たち現代人の多くが、人生にどこか物足りなさを感じながら生きています。
楽しいはずのことをしていても、どこか楽しくない。何かが物足りず、虚しさを感じてしまう。満足ができない――そんな感覚です。
子どもの頃は、ちょっとしたことでもワクワクし、何をしても楽しかったのに、大人になるにつれて感動が減り、すべてが味気なく感じられてしまう......。
これは、一見恵まれた生活をしている人にも起こります。
お金もあり、地位もあり、傍から見れば幸せそうに見えるのに、本人は幸せを感じていない。
こうした悩みは、人から共感されにくいものです。
人に話しても、「そんなの贅沢な悩みだよ」と言われてしまい、ますます虚しくなってしまいます。
美しい景色を見ても感動できないのはなぜか
実はこの状態も、左脳が過剰に働き、右脳の働きが抑え込まれていると起こります。
それは、「感覚が閉じた状態」と言えます。
昔の私は、まさにその状態でした。
たとえば旅行に行って、有名な景色を目の前にしても、ほとんど何も感じられないのです。少しは「きれいだな」とは思っても、それ以上の感動にはなりません。心がほとんど動かないのです。
そんな状態になったのは、高校生の頃からでした。どこか世界が色あせて見えるようになり、何を見ても「たいしたことない」と感じてしまい、感動が起こらない。自分でもその理由がわからず、長年不思議に思っていました。
ところが30代になって、右脳優位な意識を体験したとき、ようやくその理由がわかりました。
思考が強すぎたため、感覚が抑え込まれていたのです。だから、美しい景色を見ても、感動できなかったのです。
美しい景色を見たとき、私たちの体には、心地よさの感覚が生まれています。その感覚は、胸や背中、お腹、肩、顔など、体のさまざまな箇所に、微細な感覚として現れます。その感覚こそが「美しさ」の体験を生み出しています。
もしその感覚がなければ、いくらきれいな景色を見ても「きれいだ」という実感は起こりません。
思考が過剰に働いていると、この美しさの感覚は抑え込まれてしまい、感じられなくなります。
思考と感覚は、まるでシーソーのような関係にあります。思考が強ければ強いほど、感覚は弱まります。
私たちの意識の容量には限りがあり、その「容量」を思考と感覚で奪い合う関係になっています。思考がその容量を奪ってしまうと、感覚は意識にあまり入らなくなります。
その結果、体に生じる感覚がわからなくなり、美しさを感じ取れなくなります。すると、景色を見ても感動できなくなるのです。
私たち現代人は、意識の容量を思考にほとんど取られてしまっているため、美しさや幸福感といった感覚を感じにくくなっているのです。
「美しさ」を感じるのは、知識ではなく体の感覚
「美しい景色」とは、正確には、「見ると体に美しさの感覚が生じる景色」ということです。
外の景色に「美しさ」があるのではなく、私たちの内側に「美しさ」があるのです。どれほど美しいとされる景色を見ても、見た本人が体で美しさを感じられなければ、それは「美しい景色」にはなりません。
もしAIが「美しい景色」を見たとしても、それを「美しい」と感じることはないでしょう。AIは体を持たないため、美しさの感覚を感じることができないからです。
AIは、「この景色は一般的に美しいとされています」と知識で判断することはできても、本当の意味で「美しい」と感じることはできません。
人間は、実際に美しさを体で感じることができます。そこに、AIと人間の大きな違いがあるのです。
ところが現代人は、体の感覚が鈍ってしまっていて、まるでAIが景色を見ているかのように、何も感じられなくなっています。
そして、美しさや感動を感じられないとき、私たちがついやってしまいがちなのが、「より強い刺激を求める」ことです。
普通の景色では美しさを感じられなくなったとき、本来なら感覚を磨くべきです。しかし私たちは、「もっとすごい景色を見ないといけない」と思ってしまうのです。
しかし、感覚が鈍っている状態では、どれほど壮大な絶景を目の前にしても、期待していたような感動は得られないでしょう。
濃い味付けに慣れてしまうと、繊細な味わいがわからなくなる
それは、料理を味わうことにも似ています。
たとえば、繊細な薄い味付けの和食を食べたとします。普段から濃い味付けに慣れている人は、「なんだか物足りない」と感じるかもしれません。せっかくの和食のおいしさが、味わえないかもしれません。
しかし、物足りないからといって、その和食にソースをドバドバかけたとしても、おいしくはなりません。
繊細な和食のおいしさを味わいたければ、普段から濃い味付けを控え、薄味に慣れて、味覚を磨いていくことです。すると、和食の繊細な味わいがわかるようになっていきます。
コーヒーやワインを味わうことも、まったく同じです。コーヒーは、豆の種類や焙煎の具合によって風味が大きく変わります。その違いを味わうには、やはりブラックで飲む必要があります。砂糖やミルクをたっぷり入れてしまうと、微妙な香りや苦味、酸味といったコーヒーの繊細な味わいがわからなくなるからです。
よりすごい景色を見にいく。
より濃い味の料理を食べる。
より刺激の強い娯楽を求める。
それは、薄味の料理にソースをたっぷりとかけるようなものです。本当に必要なのは、まったく逆のことです。
たとえば、近所のさりげない景色を、慌てずにじっくりと味わってみる。日々の中にある、ちょっとした楽しさや幸せを、ゆっくりと噛みしめてみる。そんな繊細な感覚を取り戻すことが大切なのです。
焦らず、慌てず、時間をかけてじっくりと味わう。頭でアレコレと解釈するのではなく、感覚で感じ取る。それが、人生の味気なさから脱出するためのコツです。
体験がもたらしてくれることの本質とは何か?
景色の美しさや食べ物の味だけではなく、私たちが人生で体験する多くのことは、身体感覚がベースとなっています。
たとえば、神社に行って「神聖さを感じた」という体験。
「神聖さ」という感覚は、静けさ、透明感、物事が整然と整っている感覚――そういったさまざまな感覚が混ざり合って、生まれています。
神社や教会など、神聖とされる場所は、そうした感覚が現れやすい場所なのです。
神社は森や水に囲まれ、静けさに満ちた場所です。参道はまっすぐに伸び、あらゆるものが整然と整っています。建物の色も、白や赤、茶色といったシンプルで落ち着いた色合いが使われています。こうした空間に身を置くと、自然と体に「神聖さ」の感覚が現れるのです。
同じように、レトロなカフェに入ると、落ち着いた感覚を感じます。それもまた身体感覚です。レトロなカフェは、茶色や黒などの落ち着いた色合いで統一され、机や椅子、壁なども味わいのある古い木材でできています。こうした空間は、「落ち着き」の感覚を体に引き起こします。
つまり、私たちの体験の本質とは、左脳で情報を理解することではなく、「その瞬間に生じている身体感覚を味わうこと」なのです。
たとえば、芸術作品の鑑賞なども、まさに身体感覚が鍵となります。名作とされる作品を鑑賞したときの身体感覚は、とても興味深いものです。
私は岡本太郎さんの作品が好きで、よく美術館に足を運びます。彼の絵を見ると、体の中にさまざまな感覚が生まれます。
力強く硬い感覚が生まれたかと思えば、同時に、柔らかく曲線的な感覚が生まれたり、熱さと涼しさといった、相反する感覚が同時に重なって現れたりするのです。
このような不思議な感覚は、日常ではあまり体験できません。熱さと涼しさのような、相反する感覚が同時に起こることは、日常ではまずないからです。
優れた芸術作品は、普通は起こらないような複数の感覚を同時に引き起こし、独特の非日常的体験をもたらしてくれます。
感覚の感度が高まり、しっかりと感じられるようになると、体験の解像度も高まっていきます。自分の内側で体験が立ち上がり、展開していくプロセス――どのように感覚が生まれ、どのように変化していくのかが、よりハッキリとわかるようになります。
すると、人生の味気なさは自然と解消されていきます。あらゆる体験が、味わい深い唯一無二の体験となります。その結果、むやみやたらと刺激的な体験や情報を追い求める必要も、なくなっていくのです。