日本の「メガバンク」はどう誕生した? 都市銀行13行が4行に集約された大再編の歴史
2025年11月05日 公開
私たちの暮らしに欠かせない銀行。そのルーツをたどると、江戸時代の「両替商」や、明治初期に誕生した第一国立銀行に行き着きます。明治政府の殖産興業政策のもとで設立された「ナンバー銀行」は全国に広がり、日本の近代的な銀行制度の礎を築きました。
その後、戦争やバブル崩壊といった激動の時代を経て、銀行業界は幾度もの再編を重ね、現在のメガバンク体制へと収れんしていきます。
本稿では、両替商からナンバー銀行、そして「三菱UFJ・三井住友・みずほ・りそな」へと至る日本の銀行の歩みを、金融エディター・菊地敏明氏の書籍『銀行ビジネス』より解説します。
※本稿は、菊地敏明著『銀行ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
第一国立銀行から始まったナンバー銀行の今
北イタリアで誕生した「両替商」が銀行の原型といわれているように、日本においても江戸時代に両替商が登場し、銀行の役割を果たしていました。江戸時代の通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類に分かれていて、金貨は主に江戸で、銀貨は主に大阪でというように、地域によって使われる通貨が異なり、それぞれ単位も違っていました。しかも、取引対象によっても使われる通貨が異なるなど、かなり複雑な仕組みになっていたのです。
また、金貨、銀貨、銭貨を交換するにあたっては、それぞれの換算率が定められていたものの、幕府の財政が悪化すると金や銀の含有率が下がるようなこともあり、実際にはその時々の状況で換算率が変動していました。そうした中で活躍したのが両替商で、複雑な仕組みに対応し、それぞれの貨幣を相場に応じて交換していたわけです。
この両替商が発展していくと、人々からお金を預かったり、貸付を行ったり、さらには現在でいう送金を行ったりもするようになり、今の銀行の役割を果たすようになっていきました。
こうした両替商の中には豪商といわれる大商人も登場し、両替以外にもさまざまな事業を手掛けていました。特に有名なのは、三井家、住友家、鴻池家などで、三井家と住友家は現在の三井住友銀行へとつながり、鴻池家も三菱UFJ銀行の源流の1つになっています。
これらの両替商は実質的に銀行の機能を果たしていたわけですが、日本に誕生した最初の銀行は第一国立銀行です。明治政府が殖産興業を推進する中、近代銀行制度の確立が不可欠という考えのもと、明治5(1872)年に公布された国立銀行条例によって設立されました。国立銀行という名称ではあるものの、日本最初の株式会社といわれてます。
その経営の最高責任者である総監役には、1万円札の顔としても知られる渋沢栄一が就任し、明治6(1873)年に営業を開始。以降もこの条例をもとに次々に国立銀行が設立され、明治12(1879)年までに153行が誕生することになるのです。
これらの国立銀行には、第二国立銀行、第三国立銀行というように設立順に番号が振られていたため、「ナンバー銀行」と呼ばれることもあります。現在も地方銀行の中には、社名に番号がついている銀行がありますが、このナンバー銀行を引き継いでいる場合が少なくありません。
例えば、十六銀行(本店所在地は岐阜県)はナンバーのみの行名を維持している最古の銀行であり、第十六国立銀行として明治10(1877)年に設立されています。その他、七十七銀行(宮城県)、百五銀行(三重県)、百十四銀行(香川県)、さらには、合併によって純粋な数字だけの行名ではなくなったものの、第四北越銀行(新潟県)、十八親和銀行(長崎県)なども国立銀行を源流とする地方銀行です。
一方で、長野県に本店をおく八十二銀行(長野銀行との合併により2026年に八十二長野銀行に改称予定)はそれらの銀行と異なり、第八十二国立銀行とは無関係。では、どこから来た数字なのかといえば、第十九銀行(第十九国立銀行が普通銀行に転換して改称)と六十三銀行(第六十三国立銀行が普通銀行に転換し改称)が合併して誕生した銀行だからで、つまり、19+63=82なわけです。
同様に、三十三銀行(三重県)も第三十三国立銀行とは無関係ですが、こちらは三重銀行と第三銀行が合併し、三重の「三」と、第三の「三」を「+(プラス)」するという意味で「三十三」になったとのこと。三重の「三」はもはやナンバーですらないわけですから、かなりユニークなネーミングではありますね。
ちなみに、最初に誕生した第一国立銀行は、後に第一銀行、第一勧業銀行などを経て、富士銀行、日本興業銀行と合併し、現在のみずほ銀行になりました。また、銀行の称号を使用した最初の私立銀行は、明治9(1876)年に設立された三井銀行で、これは前述の豪商である三井家が中心になって設立された銀行であり、現在の三井住友銀行の源流の1つとなっています。
つまり、日本の銀行の歴史は国立銀行条例による政府主導の部分が大きかったのは確かですが、一方では民間主導の流れもあり、その両面から発展していったともいえるのです。
都市銀行から「メガバンク+りそな」へ
明治政府によって交付された国立銀行条例で誕生した第一国立銀行を皮切りに、以降は日本にも多くの銀行が誕生していきますが、大きな転換点になったのはやはり太平洋戦争です。銀行も統制下に置かれ、軍需産業への資金供給を求められる中、政府主導のもとで銀行の合併が進んでいきます。
そして戦後になると、銀行は復興と高度経済成長を資金面から支える重要な役目を担っていきます。1950年代前半までに戦後の日本の銀行制度は確立され、大蔵省(現・財務省)の厳しい管理下に置かれる「護送船団方式」と呼ばれる体制もこの頃に生まれました。
さらに、もう1つの大きな転機となったのが、1990年代初頭のいわゆる「バブル崩壊」です。日本の代表的な株価指数である日経平均株価は、1989年12月に終値ベースで当時の最高値である3万8915円を記録しましたが、1990年に入ると暴落し、9月には2万円台となって半値近くの水準にまで下落しました。
以降の日本は、「失われた20年」とも「失われた30年」ともいわれる低成長時代に突入し、銀行も苦境に立たされます。バブル崩壊から2003年度までに、なんと181もの銀行(協同組織金融機関などを含む)が破綻に追い込まれました。銀行はまさに大再編時代を迎えたのです。ちなみに、日経平均株価が再び最高値を更新したのは2024年2月であり、バブル崩壊から実に34年もの歳月を費やしたことになります。
この再編で特に大きく変化したのは都市銀行です。今では「都市銀行」という言葉はほとんど使われなくなってしまいましたが、金融庁が公表している銀行免許一覧には依然として都市銀行という区分があり、みずほ銀行、三井住友銀行、三菱UFJ銀行、りそな銀行の4行が分類されています。
実はバブル崩壊前夜の1989年の日本には、13もの都市銀行が存在していました。具体的には、第一勧業銀行、富士銀行、三菱銀行、住友銀行、三和銀行、三井銀行、太陽神戸銀行、東海銀行、大和銀行、協和銀行、東京銀行、埼玉銀行、北海道拓殖銀行です。この13行の体制が20年近くも続いていましたから、40代、50代以降の人にとっては、いずれも懐かしく感じられる銀行かもしれません。
この13の都市銀行のうち、三井と太陽神戸が1990年に、協和と埼玉が1991年に相次いで合併し、前者は太陽神戸三井銀行を経てさくら銀行に、後者は協和埼玉銀行を経てあさひ銀行になりました。さらに1996年には東京と三菱が合併し、東京三菱銀行が誕生します。
また、1997年には北海道拓殖銀行が破綻。都市銀行の1つが破綻にまで追い込まれたことは当時の日本で大きな話題となり、「金融危機」という言葉もしばしば使われるようになります。
この金融危機の中で銀行の再編もさらに加速しますが、2000年の時点で都市銀行は第一勧業、富士、東京三菱、住友、三和、さくら、東海、大和、あさひの9行。このうち第一勧業、富士に日本興業銀行が加わり、分割・合併などの経緯をたどって現在のみずほ銀行(13年)になりました。三和、東海は合併してUFJ銀行(02年)に、さらに東京三菱と合併して三菱東京UFJ銀行(06年)となり、18年には三菱UFJ銀行に改称しました。
さらには、さくら、住友が三井住友銀行(01年)に、大和、あさひがベースとなってりそな銀行(03年)となり、現在の3大メガバンク+りそなという4つの都市銀行の体制になったわけです。13もあった都市銀行が、わずか15年ほどで4行にまで集約されたわけですから、まさに劇的な変化です。
この再編により、4行はバブル崩壊に端を発した未曽有の金融危機を乗り越えることができたともいえるでしょう。現在この4行は信託銀行や地方銀行、さらには証券会社や資産運用会社といった他の業態も巻き込み、それぞれ「三菱UFJフィナンシャル・グループ」「みずほフィナンシャルグループ」「三井住友フィナンシャルグループ」「りそなホールディングス」という持株会社のもとで巨大な金融グループを形成しています。その中で、4行は中核としての役割を果たしているのです。