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生き方

エルトゥールル号の奇跡~日本とトルコを結ぶ絆

童門冬二(作家)

2013年02月06日 公開 2021年08月05日 更新

『歴史街道』2013年3月号総力特集 より》
 

恩は忘れない… 「真心」で結ばれた時、奇跡は必ず起きる

東日本大震災において、深刻な原発事故も起こる中、それでも被災地の現場に3週間も留まり、献身的に救助活動を続けてくれた国がある。トルコだ。
その背景には、危機に際し命がけで助け合った日本とトルコの歴史がある。「恩を忘れない」「困った時には助ける」―――。
そんな人として最も大切な「真心」で結ばれた時、時代も国境も越えた友情を紡ぐことが可能になる。国と国の間でも。

 

結ばれた「強い絆」

平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災では、世界の20を超す国々が救援隊を日本に派遣してくれました。彼らは被災地に入り、行方不明者の捜索・救助や、がれきの撤去作業、医療活動などに精力的に携わり、その活動にわが国は大いに助けられたのです。しかし、福島第一原発の事故の深刻さが明らかになると、撤収を選択する国が続出しました。外資系企業の中には、日本支社の社員に「東京から退避せよ」と命じるところもあったといわれます。

 しかしそのような中、各国からの救援隊の中では最長となる3月19日から4月8日までの約3週間、宮城県石巻市、多賀城市、七ヶ浜町など被災地の現場に踏み止まり、最前線で活動を続けてくれた国がありました。トルコです。

 この行為の「重さ」は、深刻な原発事故に見舞われた異国の地に踏み止まって支援活動を続けられると断言できる人が、果たしてどれほどいるかを考えれば、十分に実感できることでしょう。「たとえ自分が犠牲になっても」という底知れぬ勇気、そして相手国への強い信頼感と友情がなければ、とても、そんな決断はできないはずです。

 トルコと日本の強い信頼と友情の背景には、両国がお互いに支えあってきた歴史があります。1999年にトルコ北西部で発生した大地震では、日本は世界に先駆けて国際緊急援助隊を派遣し、緊急物資・無償援助などを行ないました。東日本大震災の後の2011年10月にもトルコ東部のワン県で大地震が発生しましたが、日本政府が緊急支援を行ない、さらに「難民を助ける会」など日本のNGOも現地で救援活動を展開しました(この時、同会の宮崎淳氏が余震で犠牲になるという痛ましい出来事がありましたが、トルコ全土から丁重な弔意が寄せられました)。

 そして両国の友情を考える際、日本人が決して忘れてはならない事件が、昭和60年(1985)に起きています。イラン・イラク戦争下のテヘランからの日本人救出です。

 イラン・イラク戦争は昭和55年(1980)に始まりましたが、昭和60年3月、イラクによるイランの都市空爆を契機に両国の都市攻撃が激化。イランの首都テヘランにもイラク空軍機が襲来するなど、情勢は一気に緊迫化します。さらにイラクのフセイン大統領は、3月17日に「48時間以降、イラン上空の航空機を、民間機であろうと無差別攻撃する」と宣言しました。

 各国は大慌てで、自国民救出のための救援機を送ります。しかし日本の救援機は来ません。自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることができず、日本航空は労組の反対もあって「航行安全の保証がない限り臨時便は出せない」という方針を打ち出したのです。現地の日本人は八方手を尽くしますが、他国の航空会社はどこも自国民優先で、乗れる飛行機はほとんどありません。

 いよいよ刻限が迫り、現地邦人の誰もが絶望の淵に沈んだ時、手を差し伸べてくれたのがトルコでした。トルコ航空機が危険をおして215名の日本人を救出してくれたのです。しかも、当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、日本人を優先して助けてくれました。

 「なぜ、トルコが?」。日本人は皆、不思議に思いました。直接のきっかけは、1つは駐イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏が、駐イラン日本大使の野村豊氏の懇願を受け、本国に救援機派遣を要請してくれたこと。もう1つは当時、イスタンブールに駐在していた伊藤忠商事の森永堯氏が、知己であったトルコのオザル首相に直接、救援を依頼したことでした。

 しかし、それらがあったとはいえ、自国民より日本人を優先して救出するほどの決断を、なぜトルコは下してくれたのでしょうか。その背景には、この救出劇から95年も前に起きた、ある事件で結ばれた強い絆がありました。トルコの人々は、それを忘れずに日本人を助けに来てくれたのです。その事件こそ、エルトゥールル号遭難事件です。

 明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オスマン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号が遭難。600名余の乗組員のうち、司令官オスマン・パシャはじめ500名以上が死亡または行方不明という大惨事になります。

 彼らは、明治20年(1886)に日本の小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブールを訪問したことへの答礼使節でした。東京で明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を奉呈した帰路に悲劇に見舞われたのです。

 これに対し、事故現場の串本・紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力であたり、危険を冒しながら69名を救出しました。当初トルコ人を収容した樫野地区は60戸はどの小さな集落で、しかも裕福な暮らしではありませんでしたから、トルコ人の介抱は決して容易なことではありませんでした。しかし、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく提供し、普段は正月にしか食べない白米を炊き出して食べさせ、さらに時を知らせる鶏もつぶして振る舞ったのです。

 明治天皇も知らせを受けるや、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い看護を受けた後、日本海軍の軍艦で翌年1月2日にイスタンブールに帰還しました。また、この事件が報道されると、日本全国でトルコへの義捐金を募る動きが澎湃として沸き起こり、現在の貨幣価値で1億円ともいわれる金額がトルコへ届けられたのです。

 この日本人の真撃な気持ちはトルコに伝わり、トルコで親日感情が大きく高まりました。これが後の、イラン・イラク戦争への対応などの一連の動きにつながっていくことになったのです。

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「まず自分が」という強烈な自主の精神

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