“普通”か“違う”かで子どもを分ける日本の学校 本質を見落とした支援の問題点
2026年02月10日 公開
発達障害とは、生まれ持った特性や発達の方向性が周囲と異なることで、学校生活でつまずきを感じやすい子供たちを指す概念です。しかし日本では「通常ではない子供」とみなし、特別支援の対象を狭く捉える傾向があり、〈みんな〉と〈違う子〉を選別する構図が生まれがちだと教育研究者の高原晋一さんは指摘します。
本稿では、発達障害の本来の捉え方を改めて考え、多様性を受け入れる教育のあり方や、公平な学びの環境をつくるための課題と改善策を探ります。
※本稿は、高原晋一著『スクールカウンセリングは日本の学校教育を変えられるか』(インプレス)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
発達障害が認識されたきっかけ
公式に発達障害が認識されるようになったのは、レオ・カナーによる「自閉症」の研究に端を発していることは、よく知られています。カナーはドイツ系アメリカ人でしたが、ほぼ同時期に、ウィーンの医師ハンス・アスペルガーも、カナーとは異なる見解で、発達障害の特徴を研究していました。そうした活動が、20世紀半ば頃に展開されましたが、その頃の西洋世界では、ナチス・ドイツが台頭していました。
発達障害を研究したカナーの意図は、伝統的な教育や養育の方法からは恩恵を受けない子供がいるので、その子供達に特別な配慮を施し、通常と考えられてきた教育とは別のやり方で発達支援をするべきだとしたことです。
子供を、障害のあるなしによって弁別することが目的なのではなく、子供の個性に応じた対応が求められることを示したのです。つまり、「発達障害」の定義の前段に、「特別なケアを要する子供に、その個性に応じた支援をする必要がある」という発想がなければなりません。
子供にどのような特徴があったとしても、幸福度が同じようになるように公平に教育を受ける権利がなければなりません。発達障害について定義する前に、子供の状態がどうであれ、等しく教育を受ける「権利」を保証する意図がなければなりません。アメリカの「No Child LeftBehind(どの子供も置き去りにしない)」構想は、この「考え方」を反映したものです。
発達障害を研究していた医師がナチスに加担?
20世紀半ばのウィーンで、カナーのような医師たちが、子供を保護し劣悪な環境に置かれることを回避しようとした意図とは裏腹に、ナチス・ドイツは子供について、別の意向を示しました。劣勢な遺伝子を持つ人間は、人類の発展のために、駆逐されなければならないという「意志」です。
劣勢な遺伝子をもつ人間として、ユダヤ人が指摘されたことは知られています。同時に「発達障害」も、あってはならないものとされ、障害が認められた子供を養育施設シュピーゲルグルントに隔離し、粗悪な環境に置いて子供が死んでいくのも構わず放置しました。
ナチスの方針に加担したくないと思った多くの医師が、ウィーンから去ったようです。しかし一部大衆の感覚では、精神疾患や発達障害を「異常」とみて、それらを駆逐することは社会にとって良いことだという共通認識を持たざるを得なかったことが考えられます。「みんな」の雰囲気あるいは意志が、迫害を許容していたかもしれないのです。
アメリカの歴史研究者エディス・シェファー(2019)は様々な資料を調べ、発達障害を研究していた医師ハンス・アスペルガーはウィーンに留まり、子供の選別に加わったことを指摘しています。ただしこの説には異論もあり、アスペルガー医師は、妻子を迫害から守るために意思に反してやむを得ずナチスの方針に加担したとも言われ、アスペルガー医師を擁護する意見もあります。
しかしながらアメリカ精神医学協会は、医師の名が冠せられた「アスペルガー症候群」の診断名を、DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)改訂の際に削除しました。
日本の二分化する風潮
日本の学校で一般的になっている「発達障害」の理解は、どのようなものでしょうか。日本の学校は基本的には「教員中心主義」であり、子供中心ではありません。子供中心主義の場合は、「通常の教育方法から恩恵を受けることが難しい子供」が、配慮を要する子供になります。
日本では、教員が指導しにくい子供を見つけ、特別支援教育の対象にするという言い方で捉えることが一般的です。そこで、そうした子供達をグループ化して特別支援教室などの別の集団に所属させます。
日本では、概して「発達障害の症状を呈する子供を特別支援の対象とする」という風に捉えられています。「通常の」子供(みんな)と「違う」子供を逸脱とみています。言い方をかえると、通常の「ノーマル」な子供に対して、通常ではない「アブノーマル」な範疇に属する子供を選別するイメージになっています。
情報を収集して属性を二つに分け、ノーマルかアブノーマルに分類します。何がノーマルで、何がノーマルでないかを、行動などの情報によって二分し、範疇化します。
つまり、子供はその二分された範疇の属性によって判断され、発達障害の定義にあてはまるかどうかで捉えられます。しかしそれはあくまで「範疇」をみているだけで、「人間」をみていることにはならないことは考慮されていません。所属する範疇が、その人の属性になってしまいます。
発達障害であるかどうかは、知能検査等のデータを参照し、統計的に割り出します。どの範疇に属するかを決することも、意味がないことではないかもしれません。
しかし、日本では、ただ属性を分けることが目的のようになってしまっています。雑な言い方ですが、定義のための定義になっています。このことは、日本でたとえば「インクルーシブ教育」がどのように捉えられているかをみると判然とします。
インクルーシブ教育は、子供の権利条約の精神に照らした考え方です。日本の学校ではそもそも、インクルージョンが子供の権利と結び付けて話されるのを聞きません。すべての子供に対して、公平に(幸福度に高低の差がないように)、教育を受ける権利を保障することがインクルーシブ教育の意味です。
日本では、この「公平」が、みんなと「同じ」機会を与えることだと解釈され、「すべての子供」ではなく、「発達支援教室に在籍する子供」について、「通常の学級の(ノーマルな)」子供達がいる学級に在籍させたり教科を学ばせることが、インクルーシブ教育になってしまっています。
個性や能力も異なる子供達を、「同じ」にするのが「公平」であると考えるのは誤謬です。一緒に学ばせようとしても、子供達の間には、やりにくさが生じることは、すぐにわかることですが、海外で「公平に教育を受ける権利を子供に保証する」と言われているので、日本でも形式的に「同じ」にしようとしています。