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アメリカでは子供の“違い”をこう支える 学校心理学が担う発達支援の実像

高原晋一

2026年02月13日 公開

心理学は、目に見える対象を扱う自然科学とは異なり、「心」という実体のない概念を扱う学問として発展してきました。自尊感情や不安といった"見えないもの"は言語によって構成され、日本語の「こころ」にもそのまま重なるわけではありません。この曖昧さは、学校教育における子供理解にも影響を及ぼします。

教育研究者の高原晋一さんは、発達の違いをどう捉え、どう支援するかを探った「学校心理学」の歩みに注目します。本稿では、その歴史と背景をたどりながら、子供に向き合うための視点を考えます。

※本稿は、高原晋一著『スクールカウンセリングは日本の学校教育を変えられるか』(インプレス)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

心理学は「科学」になり得るのかという疑問が

ジクムント・フロイトが本格的に精神分析を始めたのは、19世紀のことでした。それは医療であり、厳密にいうと心理学ではありません。ただ、心理学が本格的に「学」とされるようになったのも、その頃のことです。

アメリカでは、ウィリアム・ジェイムズが、心理学を職業にした最初の人と考えられています。ジェイムズは、ヨーロッパのヒューマニズム(人間中心主義)の流れを汲むプラグマティズムの哲学者でもあり、心理学は哲学から派生したものでした。

当初から、心理学は、はたして「科学」になり得るのだろうかという疑問がありました。自然科学であれば、主として目に見える物を研究の対象としています。太陽の黒点を観察したり、ウナギの移動経路を探ったり、ウィルスが身体に与える影響を調べたりしますが、太陽もウナギもウィルスも、あるいは人間の身体も、物体であり生物であり、目に見える物です。

ところが、心理学の研究対象となる心(mind)のはたらきは、目に見える物ではありません。「行動心理学」のように、目に見える「行動」を扱う分野はありますが、「感情」「不安」「自尊心」など、基本的には心理学の対象になるものは、具体的な物ではなく、捉えどころのないものです。それらは、実際に自然界に物としてあるものではなく、人間が言葉によって構成しているものなので、これらを「構成概念(construct)」と呼びます。

例えば、日本語で「自尊感情」などと呼ばれる「セルフエスティーム」は、目に見える物ではありません。自信がある、自分が好きである、人と同じように何かができる、などといった、いわば状況証拠のような内面の事象を拾い集め、それらの集合体のようなものを仮定して、「セルフエスティーム」という名を与えたものです。物としてあるのではありませんから、本当は「ない」のかもしれません。

セルフエスティームの正体は何かということは研究者によって様々に考えられていて、その尺度も千差万別です。象徴的相互作用論(symbolic interactionism)を唱える心理学者のなかには、セルフエスティームを実在するものと考えない人もいます。

 

見えない「心」を扱うむずかしさ

「心理学」とは何でしょうか。日本語では「こころの学問」などといわれることがありますが、「心理」と「こころ」は、同じものなのでしょうか。欧米でいう「心理学」は「mind」を扱うもので、知能の理論や検査などは、心理学をもとに開発されます。

例えば数学が理解できずに、勉強が遅れている子供は心理的な発達が遅れているのです。ところが、数学の勉強が遅れている子供について、「こころが劣っている」などという言い方をするでしょうか。「心理」と「こころ」のように、厳密にみれば異なっているものが、日本語で考えると同じものになってしまいます。

サール(2018)のように、心理学自体が、神経の作用や脳のはたらきを抽象化してつくり上げられた、まがいものにすぎないと説く人もいます。「心理主義」は、エトムント・フッサールなどが、人間を心理のはたらきに還元して捉える態度を批判した言葉です。

心理主義が望ましい態度ではないにしても、人間を見る場合に、仮にでも「心理」のはたらきを想定することで、ある種の見方をすることができるのではないかと考えてしまうことは、日常的な感覚としてあります。心理学が科学の地位を得ることができるように、人間の心のはたらきを、曲がりなりにも目に見える物であるかのように表現する試みがなされてきました。

学校というひとところ一所に集められた子供達をあらためて見ると、それぞれに発達の速度や能力の差があり、一筋縄ではいきません。学校でいう「学力」は、つくられた一つの概念に過ぎませんが、それを基準にみると、発達が早い子供、遅い子供がいて、学力が高い子供もいれば、学業に苦慮する子供もいます。

学習するということは、個人的な体験と捉えられていますから、一人一人が異なるペースで、異なるやり方で行わなければならないのです。一斉の授業で、みんなが同じことを同じように学ぶことを奨励する日本の学校教育とは、異なる態度です。

子供ごとの違いは、もちろん古くから気付かれていました。その違いを客観的に捉えて記述し、その情報を基に、学校教育を効果的に進めようとする考えが出てきます。折からフランスで、人間の知能を、数値で表して具体化する方法が開発されていました。人間の能力は、具体物として目に見える物ではありませんが、それを統計的な数値で表現し、測定可能なものにして把握する試みです。

 

学校心理士とは

子供達の「違い」に着目し、科学的な視点で心理学を応用しつつも、人間として子供をみて学校教育に携わる専門家を「学校心理士(school psychologist)」と呼びます。心理士が発達検査などを行っても、その土台に、子供の「違い」を捉える考え方がなければ、本来の学校心理学とは異なるものになるだけです。

みんなに合わせて、みんなと同じ考えにしたがって生きることが想定されていると、学校心理学の真の姿もみえません。平均値から外れる子供がいると、それを単に異常であるかのように見做してしまうことになります。

学校心理学を専門とする学校心理士(スクールサイコロジスト)は、発達障害などを心理学の対象として扱います。もちろん知的に障害がある子供は、ある種の脳の機能に定型発達の子供との差はあるかもしれませんが、前述したように、人間の「こころ」が劣っているわけではありません。

アメリカでは、クリニカルサイコロジスト(臨床心理士)やスクールサイコロジスト(学校心理士)には、実際に診断にあたることができる技術が必要とされます。診断の際に重視されるのは、「診断名は何か」といったようなことではありません。

診断名よりも、「その人をどう見たか、なぜそのような判断がなされたのか」という診断のプロセスが大切であるとされます。診断書は、時に何十ページにもわたる分厚いものになります。

対して日本の診断書は、診断名だけが書かれた紙一枚だけであることがあります。本来、人間を診断名で捉える発想はなく、人間そのものの状態を、どのように捉えるかということを重視するのが「鑑別診断」です。

アメリカでは、診断名だけを頼りに人間を無機的に理解してしまうことは、「レッテル貼り(labeling)」として忌避されます。―――ちなみに日本では、診断をすることができるのは、免許をもつ医師だけです。

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