たくましく生き抜いた「浅井三姉妹」と戦国の世
2011年02月19日 公開 2022年06月07日 更新
小谷城跡からの風景(滋賀県長浜市)
「昨日の友は今日の敵」とも言われるほど変化の著しい戦国時代下では、結婚は利用価値のある相手と関係を繋ぎ止める"人質"のようなものだった。
その中でも浅井三姉妹はその時代を生き抜いた、今も名を残すたくましい女性たちだ。茶々、初、江、それぞれどんな生涯を送ったのだろうか。
※本稿は、立石優 著『徳川秀忠と妻お江』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
戦国時代の「結婚」
群雄割拠の戦国時代は謀略と背信が横行し、父子・兄弟の間ですら、いつ寝首を掻かれるか分からない乱世であった。
「昨日の友は今日の敵」という時代だから、大名や武将たちは同盟や服従の証として、人質を差し出したり、婚姻関係を結んだりして、一時的にせよ相手を繋ぎ止めようとした。
そのもっとも手っ取り早い手段が、政略結婚であった。大名や武将たちの娘は、政略の道具として利用されたのである。女性本人の意志など、配慮の外であった。親や兄弟たちにとって利用価値のある相手に嫁がされ、また側室(妾)として送り込まれたのだ。
「結婚」というのは名ばかりで実質上の「人質」であるから、婚家と実家が不仲になって戦争になったりすると、女は言語に絶する悲哀を味わうことになる。離別されて実家へ返される場合はまだしも幸運で、敗戦・落城に際して婚家に殉死するケースは多かったのである。実の父や兄弟に殺されるわけだから、やりきれない心境であったろう。
織田信長といえば、謀略とは無縁で有無をいわせず押し通すイメージだが、意外にも積極的に政略結婚を展開したのである。信長自身も政略のため、隣国・美濃の斎藤道三の娘濃姫(のうひめ)と結婚している。
信長の妹であるお市も、近江の浅井長政に嫁がされた。そして長政とお市の方との間に生まれた三人の娘「茶々・初・江」の姉妹は、彼女たちの伯父にあたる信長に父長政が滅ぼされてのち、まことに数奇な運命を辿ることになる。
茶々、初、江…それぞれの生き方
三姉妹が生きた時代は、信長-秀吉-家康と天下の覇者が二転三転する、史上にも稀な激動期であった。彼女たちは、まさにその渦中に巻き込まれてしまうのである。
三姉妹は父を第一の覇者・織田信長に殺され、母は第二の覇者・豊臣秀吉によって死に追い込まれた。
その後――長女の茶々は、母の仇ともいえる第二の覇者・豊臣秀吉の側室となって秀頼を生み、ついには第三の覇者・徳川家康に殺される。
三女の江は、三度日の結婚で二代将軍となる徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光を生む。娘の和子(まさこ)は皇后となり、孫娘は天皇となる。
次女の初は、没落した名家の坊ちゃん大名・京極高次に嫁ぎ、姉(豊臣家)と妹(徳川家)の真ん中に挟まって中和剤となり、両家の和議調停にも奔走する。
このように三姉妹は各々が、まるで脚色されたように異なった人生行路を辿って行くのである。
茶々は豊臣家の滅亡と共に命を絶ったが、「淀殿」として歴史に名を刻んだ。お江は将軍の妻となり皇后の母となって栄誉を極めたが、大御所家康に気を遣う苦労がつきまとい、大奥では春日局との葛藤もあった。二人に比べれば平凡な人生を送ったお初は、だれからも愛慕され、もっとも長寿を保っている。
三姉妹のなかで、だれが本当に幸せな生涯を送ったのか、見方によって判断は分かれるところだろう。はっきりしていることは、彼女たちが幼時からの苛酷な運命に挫けることなく、それぞれの立場で精一杯に努力し、生き抜いたことである。
自殺者が増加し、「心の病」が社会問題化している昨今、三姉妹のたくましい生き様に学ぶことは多いのではなかろうか。