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生き方

淡い景色が広がる独自の描き方 アルコールインクアートが魅せる言葉の要らない世界(連載「描き屑の瞬き」第3話)

いのうえまりこ(画家)

2026年07月22日 公開

アルコールインクと無水エタノールを紙に垂らし、風や紙の傾きでインクを広げて描く、アルコールインクアート。画家・いのうえまりこさんは、この技法を主な画材に、自身の内側にあるものと向き合いながら作品を描いています。

連載「描き屑の瞬き(かきくずのまたたき)」は、いのうえさんが日常のなかで心に留まった景色や感情を、絵とエッセイで綴る企画です。第3回となる今回も、担当編集との対話をもとに完成した一枚の絵に、言葉を添えてもらいました。

淡く、どこか浮遊感をおぼえる作品。いのうえさんが高校生の頃に味わったとある出来事をきっかけに、"心が動く瞬間"について語ってくれました。

 

言葉では届かない場所へ

冬の寒空の下、一人で絵を描いていたことがある。

美術科の高校に通っていた頃、冬休みに出された課題は、一本の大木を描いてくることだった。冷たい空気の中、街角で大木に向かって絵筆を動かしていた。

描いている途中、背後で子どもたちのひそひそ声がした。一人で絵を描いている気恥ずかしさもあり、振り返らず黙々と描いていた。しばらくして、聞こえなくなったと思ったらまた聞こえてきて、やがて静かになった。

気配が消えたのを感じて、ほっとしてようやく振り返ってみた。

そこにはみかんとお菓子があった。
そっと、丁寧に置かれていた。

言葉は交わしていない。顔も名前も知らない。
ただ、私のために、黙って置いていってくれたのだと思う。

びっくりしたあと、少し泣きそうになった。
冬空の下の出来事なのに、ぽかぽかとした温度のまま、ずっと胸に残っている。

編集の方との対談は続いていて、この日最後の3枚目の絵を描いている。

重い話をしたあとだったから、最後はもう少し軽やかでありたいと思った。コジコジが出てきそうな絵にしたいと思った。私はさくらももこの作品のコジコジが大好きである。あの在り方に、何度も救われてきた。

深刻ではなく、何かを証明しようともしない。そこに在るだけでいいような絵。自由に好きなところに遊びに行ったり、好きなものを好きな時に食べたり、ただ息をしているだけでいい、そんな世界の絵。

絵を描くとき、少し変わった描き方もしている。水で溶けるアクリル絵の具と、エタノールで溶けるアルコールインク、ときにはオイルパステルも使う。それぞれ溶ける媒体が違うから、きれいに混ざり合うことはない。反発しながら、はじきながら、画面の上で思い思いに広がっていく。

少しずつ色が重なり、層ができていく。乾くまでにも時間がかかる。それでも最後には、一枚の絵になっている。その過程を見るのが好きで、この描き方を続けている。

アクリルの白の上に、カラフルなインクを重ね、そしてまた白を重ねていくと、全体に淡い色の景色が広がっていく。

眺めている時間の中で、頭の中で組み立てていたおしゃべりが静かになる。せわしなく結論を急ぐ気持ちがほどけていくような。色をただ動かすという行為は、言葉を通らないまま、何か大切なものに触れているような気がする。

以前、ワークショップに参加された方から、「その日は数年ぶりに朝まで眠れました」とご連絡をいただいたことがある。それが絵のおかげだったのか、本当のところはわからない。ただ、その人の中で何かが動いたのであれば、私はとても嬉しい。一枚の絵が売れることより、ずっと嬉しいと思う。

絵を描いて、時間を誰かと共有して、相手も自分の色を広げ始める。その連鎖の中で、何かが少しずつゆるむことがあればいいと思う。

かつて冬空の下で絵を描いていた日。もらったみかんとお菓子を頬張りながら絵を描き続けた日。冬休み明けの提出後に採点があったけれど、その時の点数のことはよく覚えていない。多分そんなにいい点数ではなかったはずだけれど、嫌な感情は残っていない。きっと、どうでもよかったのだと思う。

私が一人で描いている背中を見たあの子たちは、何を感じて動いたのだろう。今となってはわからないけれど、みかんをもらったあの瞬間、私の心はポカポカとあったかいほうへ動いていった。それだけは、本当の話。

紙の上に色を落とし、風を当てていると、少しだけ目の前の景色が動く。

絵が動いただけなのか、心も一緒に動いたのか、確かなことはわからない。

それでも、言葉では届かなかった場所へ
色が静かに連れていってくれることがある。

そんな小さな希望を抱えながら
今日も描き屑をひとつ、こぼしていこうと思う。

今回使用した画材:アルコールインク、アクリル絵の具、オイルパステル

著者紹介

いのうえまりこ

画家

東京生まれ。芸術系のクラスのある高校に進学し、早くから美術を学ぶ。武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科を卒業。
10年以上絵を描くことから離れたのち、2020年末より制作を再開。現在はアルコールインクを主な画材とし、抽象表現を中心に制作している。
「自身の内側に気づくこと」を主軸に、自己対話を重ねながら描く。過去に置き去りにしてきた感情や記憶、そして今この瞬間の感覚に触れ、その輪郭を探るように表現を続けている。
その中で生まれたものが、誰かの中にも小さな変化を残していくことを願っている。
不定期でワークショップや展示会を開催中。詳細はSNSアカウントを参照。
https://www.instagram.com/ino_artworks/

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