「要求水準」が高かった父
家族一緒に東京で暮らすようになって、父が勉強を教えてくれるようになりましたが、とにかく「要求水準」が高い(笑)。私が出来ないと「なぜこんなのがわからないのか」と怒鳴られることもしばしば。とても怖い思いをしました。父の2歳年下の叔母から「二郎さんは優しくて教え方が上手かったから、成績が良くなって本当に鼻が高かった」と聞いていたので、なぜ私だけ、と理不尽に思いましたが、今にして思えば、父も戦後、敗戦国として航空機開発を連合軍から禁止され、色々な悩みやストレスもあったのでしょう。また、そんな先行き不安の中で、自分は身体を壊し、子供を6人も抱えていましたから、せめてきちんと教育だけはしておかなければとの焦りもあったに違いありません。
その後、私も身体がだんだん大きくなり、父も一目置いてくれるようになって、高校からは「父が怖い」という意識はなくなりました。大学入学もとても喜んでくれて、こちらも生意気にも対等になったという思いもあり、零戦のことなども色々話したものです。
振り返ると、父から教訓めいたことは一切言われた記憶がありません。私が技術屋の道を選ばなかったことで、がっかりもしませんでした。「本人が良ければ」と子供たちの価値観を大切にしてくれたように思います。
また、勉強以外で叱られたこともあまりありません。父は身体がそれほど丈夫ではありませんでしたから、私が高校でラグビーに打ち込むのを見て、「お前は俺と違って体力があるから、スポーツをやってもうまくいくよなあ」などと喜んでいました。
父は、ゴルフは好きでした。「ハンデはいくつだったの?」と聞くと、「俺は12だったけど、お前は俺よりずっと力があるから、12は突破するだろうよ」と言われた記憶があります。結局、私も抜けずに12止まりでしたが、父を誘って3度ほど一緒にゴルフコースを回りました。戦後、日々の生活に追われて腕前を落としていたようでしたが、父らしい淡々としたプレースタイルで、とても嬉しそうにしていました。
やはり父はとても几帳面な性格だったと思います。私の家内は結婚した時、トイレに「鎖はゆっくり引くこと」「水は流しきること」とか、洗面所に「歯磨きのチューブは下からしぼり出すこと」という注意書きが書いてあったことにとても驚いたそうです。また布団も、襖と直角にきちんと敷いていました。資料の整理もとても几帳面でした。若い頃の欧米出張の報告書の控えも完全な形で2冊残されていました。その際の写真も数多く撮っていて、裏にはいつどこで撮影したかきちんとメモを書いています。その他、開発の打ち合わせなどの記録を書いた備忘録もたくさん残っています。このような資料は、所沢航空発祥記念館さんや藤岡歴史館さんに引き取っていただけることになりました。とてもありがたいことです。
すべてを賭けた道を失っても
父は子供の頃、歴史書が好きだったようで、当時のことですから『プルターク英雄伝』や『ナポレオン伝』『甲越軍記』などを胸躍らせて読んでいたようです。そのせいでしょうか。父の文章を読んでいると、起承転結でわかりやすく書くことを多少なりとも心がけているような気がします。
海軍の航空参謀だった奥宮正武さんとの共著で『零戦-日本海軍航空小史』という本を昭和27年(1952)に発刊しています。この頃から休日には物書きをしている父の姿をよく見るようになりました。
『零戦』のまえがきには、書籍の執筆依頼を「その都度断わって来た」とありますから、それまでは自分自身で封印していた部分があったのでしょう。この本が実現したのは、元海軍中将で航空技術廠長や航空本部長も務めた和田操さんが「記憶や記録が散逸しないうちに」と熱心に働き掛けてくださったおかげでした。本書の執筆の多くは、共著の奥宮さんに負っていますが、その後、父は何冊かの書籍を書いています。
父は零戦で有名になりましたが、あくまで主任設計者であり、名機が誕生したのはチームワークの賜です。父も著作でその点を強調していますし、人間的なつながりをとても大切にしていました。
また、零戦は開発要求が厳しく、とても苦しんでようやく完成させたものです。試験飛行で操縦士が2人亡くなっていますし、戦争では多くの方々が戦死しておられます。特攻にも使われました。零戦にはいい思い出もあるけれども、悲しい思い出、辛い思い出も数多くつまっている。それだけに、好きだとストレートには言えなかったのではないでしょうか。
父は東大に航空学科ができてから5期目ですから、当時、航空機設計を系統立てて習った本当に数少ない人間だった。会社もそれに期待して入社3年目で欧米に派遣してくれて、入社6年目で戦闘機丸々一機の設計を任せてくれた。さらにその時期が、日本人が明治以降、先端工業技術のいくつかの分野でようやく初めて世界のトップに躍り出た時期と重なったわけです。そう思えば、父は恵まれた時期に生きたとも言えるでしょう。
父にとって航空機の設計は、自分が好きで入った道でしたし、いい飛行機を作ったということで多くの方々からも認めていただき、自負心の源でもあった。要するに「エブリシング(すべて)」だったと思うのです。それなのに42歳で敗戦を迎え、航空機開発を禁止された。これは父にとってあまりに辛いことだったに違いありません。
昭和25年に書いた文章の中に、「自分は職業の選択に失敗したと思う。他の分野では大した仕事は出来なかったかもしれないがそれでも良い。私の子供には彼らの好みと才能にあったところの戦争を放棄した日本にふさわしい永続性ある職業が見つかるよう心の底からいのっている」という言葉すらあります。父は日本が世界戦争に突入することを非常に恐れ、日独伊三国同盟が締結された時に「こんなことをするともう日本は戦争への道をまっしぐらに行くぞ」などと母に言っていたそうですが、それはもしかすると、戦争に負けて自分の好きな仕事を奪われてしまうことを、心のどこかで予感してのことかも知れません。
ただそんな父も、子供たちを皆、大学に行かせる目処が立ったくらいの段階で、ある意味で悟ったというか、顔がどんどん穏やかになっていきました。ある面でとても厳しい道を歩んだ父でしたが、晩年の写真を見ると達観したいい顔をしていますから、幸せな人生だったのではないかと思うのです。