松下幸之助と「東京オリンピック」
2013年10月03日 公開 2022年12月15日 更新
《特設サイト『松下幸之助.com』 今月の「松下幸之助」 より一部を抜粋》
2020年のオリンピック開催地が東京に決定しました。
1964年以来、じつに半世紀以上の月日が流れたことになります。
そのころの松下幸之助はというと、1961年に松下電器(現パナソニック)の社長を退き、自らの思想・哲学の深耕に精を出しはじめていました。しかしこのオリンピック開催という、経済拡大を期待させる国家的イベントに日本が沸き立ったころ、松下幸之助、さらには日本の家電業界は、厳しい経営環境に晒されていたのです。
2020年の東京オリンピック決定は、現在、改革策に決定打を欠くアベノミクスにとってチャンスの種となるのでしょうか――。今後の自民政権の舵取りに大いに期待したいところですが、こうしたときに歴史を教訓にするのも意義あることでしょう。
当時松下はすでに会長に退いていましたが、事態の深刻さを察知していました。金融の引き締めによる需要停滞などを見据えて、1963年度の経営方針発表では、経済変動に動揺しないだけの体質改善・強化をはかることを社員に強く要望、しかし市況悪化の影響は避けきれず、半期で減収減益という状況に陥りました(それは戦後の1950年の再建時以来のことでした)。さらには販売会社や代理店の多くも赤字経営に落ち込み、「熱海会談」開催にいたります。
松下は、参加した社長たちと直接議論を重ねるなかで、危機の本質をつかみ、最後には松下電器の責任を認め、すぐさま対策を講じます。営業本部長代行として第一線に復帰、販売制度の改革を成功させるのです。まさにその陣頭指揮をとっていた翌1965年度の経営方針発表の場では、オリンピックにふれつつ、以下のように述べています。
今日、世界的に産業界は競争しつつあります。国と国との産業が競争しております。また国内にありましても競争いたしております。みなその競争に打ち勝とうとしているのであります。その打ち勝とうとするところに熱意がこもりまして、創意工夫が生まれ、発明が生まれ、新製品が生まれ、世の進歩が生まれておるのであります。各国間の競争というものが、無理なものでなければ、そこに人類の進歩と申しますか、世界産業界の発達というものがあり、国家またしかりであります。そういうことを考えてみますと、競争それ自体がわれわれの仕事である、と申していいと思うのであります。
昨年、オリンピックが日本で行われまして、各国がそれぞれ熱意を傾けて競技に打ちこんだのであります。競技には、負けるところもあれば勝つところもあるわけですが、やはり熱心に訓練をした選手、それも単なる熱心さだけでなくして、工夫して効果的な訓練法を見いだしたところが主に勝利を得ております。そういう点において、日本のスポーツ界は非常に進歩したものだ、という感じがしまして、私は日本国民のもつ素質に対し、新たに認識を深めました。同時に、日本人としての誇り、自分自身が日本人であることに対して非常な感激を覚えたのでありますが、そういうような競争があってこそ、あの光輝あるオリンピックというものが、世界の人々の感激のもとに行われたと思うのであります。
われわれの日常の仕事もやはりそれと同じことであります。よりよき物をつくって、それを顧客に提供し、そして国民生活をより高くしていくことに、お互いが選手たらんとしておるのであります。そこには苦しいこともありましょう。ある場合には、夜を日についでやらなくてはならないという場合もありましょう。しかし、そういうことに苦痛を感ずるよりも、生きがいを感ずるというようなことでなければならないと思うのであります。あたかもオリンピックの選手と同じことだと思うのであります。われわれはやはり産業のスポーツマンです。そういうように産業界というものが見直されなくてはならないし、本来がそうあるべきものだと思うのであります。 『松下幸之助発言集23』より
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