直木賞作家・山本兼一 受賞作『利休にたずねよ』を語る
2014年02月13日 公開 2019年09月12日 更新
《『Voice』2014年1月号より》
「利休のお茶は、『命の芽吹き』の象徴なんです」
<聞き手:仲俣暁生(フリー編集者、文筆家)/写真:橋本繁明>
第140回直木三十五賞受賞作である山本兼一さんの小説『利休にたずねよ』(PHP研究所)が、市川海老蔵主演による映画となり話題を呼んでいる。
「侘び、寂び」という茶の湯(茶道)の美学を体系化し、「茶聖」とも呼ばれた千利休は、和泉国(現大阪府)堺の商家に生まれ、10代から茶の湯に親しみ千宗易と号した。初めは織田信長に茶頭として仕え、「本能寺の変」ののちは豊臣秀吉の茶頭となり、正親町天皇への禁中献茶にも奉仕した(利休という居士号はこのときから)が、天正19(1591)年2月に秀吉から切腹を命ぜられ、自害する。
利休の人物像とその死の謎は、これまで多くの小説家の想像力を刺激してきたが、山本兼一さんは斬新な解釈により、魅力的な利休像を生み出すことに成功した。はたして利休とはいかなる人物だったのか。京都のお仕事場近くのホテルでインタビューを行なった。
山本家と千家の不思議な縁
仲俣 山本さんは京都のご出身でしたね。『利休にたずねよ』を読んだときの驚きは、千利休という人物の息遣いや肌合いまでがリアルに感じられたことでした。利休という人物に対して、山本さんのなかで、どこか身近な気持ちがあったように思えます。
仲俣 それは不思議なご縁ですね。
山本 千家の菩提寺は大徳寺の聚光院で、利休の墓がそこにあります。寺の山門の上には、かつて利休の木像が置かれていた。秀吉が「股の下をくぐらせるのか」と怒り、利休に切腹を命じたとの伝承がある、あの木像です。
聚光院の本堂には狩野永徳の手による「四季花鳥図」があります。私が幼いころは、そこでお参りをしてから裏にある閑隠席を見るのが習慣でした。わずかさん3畳の茶室でしたが、そのたびに親父に「ここで利休が腹切ったんだ」と教えられたものです。
やがて誤伝だとわかるのですが、当時はここで利休が腹を切ったとお寺の和尚さんも信じていたんです。のちに文書が出てきて、利休の150回忌に寄進されたものだとわかった。でも昭和30年代ごろまで、閑隠席は聚楽第にあった利休屋敷を移築したものだと思われていた。そのせいか、切腹してそこに突っ伏す利休のイメージが、幼稚園のころにはすっかりできてしまいました。
仲俣 利休という人物に、小説家としてあらためてアプローチしてみようと思われたきっかけは何ですか。
山本 安土城の建設を指揮した大工、岡部又右衛門を描いた『火天の城』(文藝春秋)のあと、何を書こうか考えました。日本の文化史を見詰めていけば、当然、そこに利休という巨人が視野に入ってきます。
利休をテーマにすると決めて、たまたま裏千家の茶道資料館でやっていた道具の展覧会を見に行ったんです。そこには利休好みといわれる真塗の棗と手桶水指が出品されていた。真っ黒い漆塗りなんですが、それを見た瞬間、「これのどこが侘びてるんだろう?」と不思議に思った。伊賀焼のザラッとした焼き物や、枯れた竹の花入のような世界が〈侘び〉だと思い込んでいたけれど、これらはものすごく艶やかで、エロチックでさえあると感じたんですよ。
仲俣 『利休にたずねよ』における斬新な利休像は、そのときに生まれたんですね。
山本 実際に自分自身でお茶を習ったことも、この作品を書くうえでは大きなステップになりましたね。聚光院とは別の塔頭(寺院の敷地内にある小院)なんですが、大徳寺での表千家のお稽古会に入れていただいた。そこでは週一回のお稽古会のほかに、花見や月見などいろんなイベントをしていました。
たとえば月見の夜には、毎年音楽のイベントが行なわれる。夕方に集まってまずお茶をいただき、薄暗くなってから本堂で尺八や横笛の演奏を聞くんです。シンセサイザーの年もあったし、女の人が京舞を舞ったり、常磐津を唸ったり。お弟子さんのなかにいた大阪フィルの人が、弦楽カルテットを連れてきた年もありました。
音楽を聞いたあとは、お酒を飲み、お弁当をいただくんですが、ちょうどそのあたりで空に月が昇ってくる。そうか、お茶とはこうやって楽しむものなのか、と教えられました。
仲俣 利休が緑釉の香盒を懐に隠すときの手のしぐさが、この作品のなかではとても印象的です。
山本 お茶の先生がなさることを見ていると、驚くことがたくさんあるんです。たとえば、懐紙の使い方がとてもうまい。稽古場の畳の上に落ちている小さなゴミを拾って、すっと懐紙に畳んでしまう。その仕草がとても自然なんです。お稽古の生徒さんがあまり来ないうちに、生けてあるお花の葉っぱをちぎって、その葉をさりげなく、すっと懐紙にしまったり。お茶の達人はそういう手の動きに淀みがないんですよ。