直木賞作家・山本兼一 受賞作『利休にたずねよ』を語る
2014年02月13日 公開 2019年09月12日 更新
不敵な笑顔が切腹の原因になった?
仲俣 松本清張賞を受賞なさった『火天の城』と、直木賞受賞作の『利休にたずねよ』は、戦国時代末期を描いた姉妹作といえる作品ですが、両者には鮮やかなコントラストがありますね。日本史上屈指の巨大建築である「安土城」と、わずか2、3畳ほどの茶室という対比、「職人」である大工の又右衛門と「芸術家」である利休という対比、タイプの異なる武将としての織田信長と豊臣秀吉の対比、この3つが挙げられると思います。
山本 又右衛門と利休を「職人」と「芸術家」の対比で捉える見方も可能ですが、この当時、芸術家と職人をはっきり区別できたわけではないんです。利休は信長や秀吉の茶頭、つまり彼らが好むようなお茶の席をしつらえることが仕事です。もちろん利休にも自己表現への欲求はありますが、彼が「アーチスト」だったか「アルチザン」だったかといえば、間違いなく後者でしょう。利休は秀吉というパトロンの庇護のもとにいながら、自分らしさを表現していこうとした。たぶんそのせいで、秀吉に次第に嫌われていくんです。
仲俣 「アルチザン」とは自己表現を第一とする近代的な意味での「芸術家」ではなく、職人性と不可分の技芸をもつ人のことですね。たしかに利休と秀吉の関係を、「芸術家」対「政治家」として単純に捉えるだけでは、あまり面白い物語にはなりません。この2人の関係を、山本さんはどうご覧になりますか。
山本 2人の出会いから利休の切腹までには10年の時間が流れていますから、関係性が変わって当然です。『利休にたずねよ』ではその変化も含めて、切腹の時点から遡ることで描いていきました。利休は織田信長の茶頭をしていたときから、秀吉がどういう人物かを知っていた。でも信長の死後、秀吉のことを念頭に「上様が山崎にいらっしゃるなら行ってみようか」と書いた利休の手紙が残っている。利休のほうでも、信長のあとを継ぐパトロンが欲しかったんです。
仲俣 利休と秀吉、どちらがより強く相手を求めたのでしょうか。
山本 それは利休のほうでしょう。信長が明智光秀に暗殺された本能寺の変は2人の運命を変えた大事件ですが、「これから天下を取るのはたぶん、あの男だぞ」と思い、秀吉に近づいた。そして山崎の合戦で光秀を破り、近江の賤ヶ岳で柴田勝家を攻め滅ぼして、さらに織田家の本領である岐阜を攻めようとする際に、わずか2畳の茶室「待庵」を献上したわけです。
この時点では秀吉の側も、利休のことを「こいつはなかなかの男だ」と思っていただろうし、利休もきわめて大胆な発想をする秀吉を「ただ者」ではないと思っていたはず。でも利休はパトロンである秀吉に対し、自らの優越感を示そうとし続けた。秀吉がなぜ利休に死を命じたかといえば、私は、たんに「嫌われた」という理由しかないと思ってるんですよ。
仲俣 そこには謎はない、ということですね。
山本 そう。利休を描いたこれまでの小説は、井上靖さんの『本覚坊遺文』(講談社文芸文庫)も野上弥生子さんの『秀吉と利休』(新潮文庫)も、利休はなぜ死を命ぜられたのか、という謎ばかりを問うてきた。大徳寺山門の木像事件とか、娘のお三を妾に出さなかったとか、茶碗を不当に高く売ったなどという話は、実際にあったとしても後づけの理屈です。ただたんに、秀吉にこいつは嫌なやつだ、と思われたんでしょう。
ではなぜ、秀吉は利休を嫌ったのか。利休は雇われている身ですから、秀吉につねに頭を下げたはずです。だけど顔を上げたとき、「あなたは天下を取ったかもしれないけれど、美しいものについては私のほうがよく知っている」といわんばかりの不敵な笑顔を、ふっと浮かべてしまったのではないか。利休は自負心がものすごく強い人なので、そうした態度が秀吉の許容範囲を超えた瞬間があったんでしょう。だから利休の死には、とくに謎はないんですよ。
なぜ作中で「恋」を描いたのか
仲俣 利休という人物の特徴を一言でいうと、どうなりますか。
山本 当時はまだ「芸術家」という言葉はなかったけど、「自分は美しいものをよく知っている」という自負は、他人から見たらいやらしいぐらいもっていた人だと思います。
取材をしたり、史料を読んでいて驚いたんですが、利休はたんなる「感性の人」ではない。大胆な飾り付けなども、直観や印象だけでやっていたのではなくて、利休はいつも曲尺割の尺をもっていた。たとえば東山の名物のときに、棚の幅に対して、3つ置くときは必ず均等に置く。そういうところはものすごく几帳面な人でもあった。そのうえでイメージも豊かだったから、あれだけのことができたわけです。
仲俣 『利休にたずねよ』という作品の1つのオリジナリティは、高麗から連れてこられた1人の女性のエピソードです。もちろんこれはフィクションですが、利休が美というものをどう捉えていたかを描くうえで、きわめて効果的だと思いました。
のちの時代の人が、武野紹鴎のお茶と、利休のお茶に当てはめた言葉があるんです。武野紹鴎のお茶は、藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮れ」という歌に象徴され、利休のほうは「花をのみ 待つらん人に 山里の ゆきまの草の 春を見せばや」という藤原家隆の歌に象徴される。ゆきまの芽吹き、つまり命の芽吹きなんだと。命は恋をしないと生まれない、利休はよっぽど素晴らしい恋をした人だろうと、強引に結び付けたわけです。(笑)
仲俣 そんな利休のイメージが、近寄り難い「聖人」となってしまったのはいつごろからでしょう。
山本 江戸時代まで、利休の存在はお茶をやってるある階級の人しか知らなかった。さらに明治時代になると、お茶をやる武家が消滅して、茶道はいったん廃れるわけです。そこでお茶の家元が、生活のために行儀教育としての普及を考えた。昭和になると茶道は女子の嫁入り前の教育になって、茶道人口も200万人以上もいました。おそらくそのあいだに、利休のイメージが「聖人」になってしまったわけです。千家は十何代も続いているので、家元がお参りして「茶聖」として敬うのは当然だけど、明治から昭和にかけて、あまりにも「聖人」のイメージができてしまった。
じつはそれをいちばん納得していないのが、実際にお茶をやってる人たちだと思うんです。『利休にたずねよ』を読んでくれたお茶の先生が「これまで利休がどんな人だったのか理解できなかったけれど、若いころは奔放なこともした人だったかもしれないわね」と納得してくれた。とくに女性の先生方が、利休が恋をしていたという設定に賛同してくれました。「茶聖」では恋もできませんから。(笑)
仲俣 利休の「恋」を描くうえでも、『利休にたずねよ』の構成はきわめて効果的でしたね。
山本 切腹の場面を最後に置いても、史実としてそこで利休が死ぬことはみんな知ってるわけですから、物語として盛り上がらない。どうしようかと考えたとき、利休の周りにいた人物を揃えれば、ものすごい豪華キャストになると気付いた。秀吉がいて信長がいて、古田織部がいて、伴天連のヴァリニャーノがいて。この豪華キャストをぜひ使いたい、と。
切腹から始めて過去にさかのぼることは最初に決めていたんですが、高麗から来た女を思い出す最初の場面で、「笑わない女だった」と書いてしまったせいで、あとから困ったんです。時間の流れに沿った話なら、「笑わない女だった」と書いても、次の回で「笑わない女がやっと笑ってくれた」って書ける。でも、時間をさかのぼる書き方をすると、もう笑わせられないんですよ。
仲俣 たしかに。(笑)
山本 そこはあとで書き直しましたが、でもそういう制約を課したことで、あの香盒が物語を引っ張ってくれた。香盒は誰がくれたものなのか、「19のときに利休が殺した女である」としか書いてない。19歳のとき利休に何があったのか、というところに、物語の軸ができたんです。