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「東京湾岸埋め立てビジョン」で危機を突破―三井不動産・江戸英雄

由井常彦(三井文庫常務理事/文庫長)

2014年12月09日 公開 2024年12月16日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年11・12月号「なるほど!日本経営史講座」より》

<構成:嶋 丈太郎>

 

明確なビジョンで危機を突破―企業を再生させた偉大な経営者たち

 今回は、危機的状況にあった会社を立て直したすぐれた経営者たちを取り上げます。私は、このうち4人の会社の社史の編纂を手掛けました。

 大企業を低迷や破綻状態から立て直した経営者に共通するもの、それは、はっきりしたビジョン=将来像を、明確にイメージしているということです。彼らは曖昧なものや漠然としたものでなく、明確なビジョンを描いています。理念も大事ですが、企業再生においては何よりビジョンが最も重要だと思います。

 アイデアというのは最初からあるのではありません。将来像が明確にあり、それに一歩一歩近づいていく過程でいろいろなアイデアが生まれるのです。そうして、困難とか不可能とか思われていたことが実現していくのです。

 

東京湾岸埋め立てビジョン――三井不動産・江戸英雄

 最初は、三井不動産を今日のように発展させた江戸英雄さん(1903~97)です。

 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)による財閥解体のあと、各企業グループが再出発したのは、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27(1952)年ごろのことです。占領下ではGHQが三井・三菱・住友の商号を非常に嫌いましたが、講和を迎えて三井の江戸さんが三菱や住友にも働きかけるかたちで財閥の商号が復活し、三井も三菱も住友も、かつての商号のもとに企業グループが再編成され、将来が展望できるようになってきたのです。

 そのときに、陽和不動産(財閥解体によって解散した三菱本社の不動産を引き継いだ会社。同社と、同じく三菱本社から派生した開東不動産は昭和28〈1953〉年三菱地所に合併)も三井不動産も、上場しました。すると、とたんに大きな事件が起こりました。陽和不動産と三井不動産が、ものすごい株の買い占めにあったのです。再上場して増資をしたときにです。

 三井・三菱の暖簾への信用に加え、膨大な含み資産があるとみられたからです。ほかにそんな資産を持っている会社は、当時はなかった。それで、買い占め勢力の絶好の標的になったのです。

 陽和不動産は相手がいわゆる総会屋でしたからお金で決着をつけました。三菱グループはまとまりやすくて、お互いに株の持ち合いをして危機を乗り越えたのです。

 ところが、三井はそうはいかなかった。三井の弱点は、三井銀行に力がなかったことです。戦前は最大の銀行として君臨していましたが、戦後は弱体でした。しかも、三井物産は解体されて再建途中。そんなときに登場したのが江戸さんでした。

 江戸さんは三井不動産の常務でした。三井グループを再建しよう、さらに三井という名前も復活させよう、という強い信念を持っていました。

 今では考えられませんが、三井不動産の株の買い占めには、当時の裏金融の人たちが介入してきました。江戸さんは、乗っ取りをはかる人々が本拠にしている暴力団の事務所に乗り込み、話をつけようと組長に会ったこともあるそうです。

 そんな事情もあって、三井不動産側は非常に困難な状態だったんです。所有するビルといっても、日本橋の三井本館の周りのいくつかどまりで、まだ日比谷の三井銀行はできておらず、資産などまるでなかった。三菱地所グループと三井不動産の規模の違いは五対一ぐらいでした。三井不動産の将来はなかったんです。

 そのときに江戸さんが考えたのが、大きなビジョンでした。京成電車を利用して千葉県と東京を往復しながら思ったのは、船橋から千葉を通って五井(千葉県市原市)までの東京湾岸一帯を埋め立てて一大工業地帯をつくる案でした。かつて通産省(当時)内でも計画されたことがあって、千葉県側も乗り気になった。東京湾の西側の一帯は、戦前から埋め立てが進み京浜工業地帯ができていましたが、千葉県側は工場と縁がなかったからです。

 日本の経済再生には、東京湾東側の千葉一帯を埋め立てなければいけない。東京湾一帯には3000万人の人口がある。世界でこんな場所はほかにない。今後発展していくためにはコンビナートをつくらなければならない――という構想が関係者の中ではっきり具体化しました。

 千葉県は当初、三菱地所に打診しますが、断られてしまいます。丸の内のビル街の再建に手いっぱいで、埋め立てには興味がないというわけです。実際、魅力がなかったのでしょう。

 それで、弱体の三井不動産が引き受けました。三井不動産というのは、今もそうですが、自分は経理、自分は総務、自分は営業という仕切りがあまり厳しくないのです。いつもビジョン第一で、社員をいろいろな仕事に取り組ませる自由な発想がありました。遊園地から住宅まで、何でもやる。江戸さんが東京湾岸埋め立てのビジョンを示したら、社員も将来性があると思ったんでしょう、結果的に千葉の海岸の埋め立ては大成功しました。

 次に江戸さんと三井不動産がやったのは、当時日本一大きな霞ヶ関ビルの開発です。ビルの中には、そこで生活できるいろいろな機能を入れました。

 その次は、京成電鉄と組んで開発に取り組んだ東京ディズニーランドです。当初、ディズニーランドはほんとうにだれ一人として、成功すると思った人がないくらいでした。面積も投資額もあまりに大きく、その意味であまりにアメリカ的と思われ、日本には向かない、必ず失敗する、といわれていました。それに対して江戸さんたちは、日本では家族全員が夢を持って楽しめるような場所がない、ディズニーランドはすばらしいアイデアだ、ということで着手しました。すぐにはうまくいかないだろうが、いつかは必ず成功するアイデアだと信じたのです。

 このとき三井不動産は、周りを整備し土地を造成して、かなりいい住宅をつくりました。当面、ディズニーランドが成功しなくても、周りの住宅販売で何とかもちこたえようということです。

 幸いディズニーランドはすぐに軌道に乗りました。本場アメリカよりも入場者数が多いのです。ビジョンが関係者のエネルギーを引き出したのです。先年完成した六本木の東京ミッドタウンも、目下進んでいる日本橋の再開発も、「ビジョン」と「ミッション」が岩沙弘道会長のキーワードです。

 平成9(1997)年に亡くなった江戸さんの最後の仕事が、三井で資料館たる三井文庫についで美術館をつくることでした。生前には実現できませんでしたが、亡くなった翌年に重要文化財に指定された日本橋の三井本館の建物内に平成17(2005)年、三井記念美術館が開館しました。

 江戸さんは死ぬまで使命感を持っていました。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

<記事掲載誌>

PHPビジネスレビュー松下幸之助塾 
2014年11・12月号Vol.20

 11・12月号の特集は「生誕120年 松下幸之助 経営者としての凄み」
 松下幸之助がこの世に生をうけたのは、明治27(1894)年11月27日。今年は生誕120年にあたる。今日の日本において松下の存在は、特に中小企業の経営者にとって依然、色褪せてはいない。幼くして生家は没落し、小学校中退で丁稚奉公に。健康に恵まれず、若くして親きょうだいをすべて亡くすという境遇。そのような人間が経営者として成功しえた理由はどこにあったのだろうか。
 本特集は、その松下幸之助の経営者としての本質を、直接教えを受けた部下たちの証言から考えてみる。語られるエピソードをとおして、その経営者としての凄みを感じてみたい。
 そのほか、エイチ・アイ・エス会長の澤田秀雄氏の幸之助論や、キヤノン電子社長の酒巻久氏、日本マイクロソフト社長の樋口泰行氏の実践経営論も、ぜひお読みいただきたい。

 

 

 

著者紹介

由井常彦(ゆい・つねひこ)

三井文庫常務理事・文庫長

1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。現職のほか明治大学名誉教授、日本経営史研究所名誉会長でもある。著書(共著含む)・編書に『日本の経営発展』(東洋経済新報社)、『安田財閥』(日本経済新聞社)、『豊田喜一郎伝』(名古屋大学出版会)、『都鄙問答』(日経ビジネス人文庫)などがある。

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