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久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文―松下村塾に集まった若者たち

『歴史街道』編集部

2015年01月31日 公開 2024年12月16日 更新

『歴史街道』2015年2月号[総力特集:吉田松陰とその妹]より》

 

吉田松陰が塾生1人ひとりに贈った言葉は若者を感激させ、自信を与え、奮起させた。

松下村塾に学び、志を抱いた主な若者たちを紹介しよう。

 

久坂玄瑞 (くさか・げんずい)1840~64 享年25

 藩医の三男に生まれた眉目秀麗の青年才子・玄瑞は、松陰の妹・文との縁談を打診され、器量を理由に拒む。すると、仲立ちした中谷正亮に「色香に迷うとは何事か」と一喝されたという。

 松陰が最も信頼した一番弟子の久坂は、「才能は自由自在、縦横無碍」「才あり気あり、獣心として進取す」と師から最大級の賛辞を贈られている。

 晩年の松陰が牢内から弟子たちに指示した、攘夷実行のための「伏見要駕策」には反対。無謀であることを手紙で師に諄々諭した。しかし松陰の処刑後は師の熱情を継承、長州の若き重鎮として攘夷・反幕運動へと奔走し、下関で外国船砲撃の指揮を執る。禁門の変で落命するが、その短い生涯はまさに松陰の愛弟子と呼ぶに相応しい。

 

高杉晋作 (たかすぎ・しんさく)1839~67 享年29

 百五十石どり上士の一人息子で、親は晋作が村塾に通うのを許さなかった。

 晋作を松陰に引き合わせたのは久坂であったという。松陰はわざと晋作の前で久坂を誉め、晋作を発奮させた。松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、久坂とともに「松門の双璧」と称されるに至る。晋作は松陰にいかに死ぬべきかと問う。その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」「死生は度外に置くべし」。松陰の死後、身分に縛られない近代的軍隊「奇兵隊」を組織、四力国連合艦隊との交渉、功山寺挙兵、四境戦争と命を削って疾駆した晋作の死生観は、松陰の教えではなかったか。

 

吉田稔麿 (よしだ・としまろ)1841~64 享年24

 足軽の長男で通称栄太郎。松陰に可愛がられ、無逸という字〈あざな〉を授けられた。

 人物評が得意で、松陰が野山獄で同囚だった富永有隣を塾に迎えると、「一見、容貌魁偉の偉丈夫ながら気立ては婦女子のように優しい」と有隣を評し、松陰も交えて塾生が大笑いしたという。

 老中間部詮勝要撃計画を進めた松陰が投獄されると、稔麿も謹慎を命じられ、以後、親から同志との交わりを禁じられた。松陰も稔麿の心中を察し、理解を示している。しかし松陰の刑死後、脱藩・江戸の旗本妻木田宮に仕えて、徳川の内情を探った。妻木に信用された稔麿は幕臣に人脈を得て、長州藩に帰参後、藩と幕府を繋ぐ重要なパイプ役となる。しかし江戸に向かう途中、京都で池田屋事件に遭遇し闘死。

 

入江九一 (いりえくいち)1837~64 享年28

 足軽の長男で通称杉蔵。弟・和作の紹介で松陰と出会い、村塾に入門する。

 下級役人に過ぎない九一を、松陰は「甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と評価し、九一を感激させた。それもあり、師の間部詮勝要撃計画を弟子たちが反対する中、九一・和作兄弟のみは従い、獄中の松陰も同志として信頼した。その後、伏見要駕策に動いた件で兄弟ともに投獄。九一は師の江戸檻送に落涙している。

 松陰の死後、武士身分となり、下関で外国船砲撃、奇兵隊創設に尽力。禁門の変では鷹司邸で久坂より後事を託されるが。重傷を負い自刃した。久坂、高杉、吉田、入江を松門四天王という。

 

野村 靖 (のむら・やすし)1842~1909 享年68

 入江九一の弟で通称和作。兄の入江姓は九一が入江家を継いだためで、兄弟の本来の姓は野村である。

 16歳で村塾に入門。松陰より「才気あり、頗る読書を好み候」「小年中の傑出」と評された。兄とともに師の計画のために動き、投獄。松陰の死後、士分に抜擢され、下関攘夷戦、四境戦争に参加する。維新後、枢密院顧問、内務大臣、逓信大臣などを歴任した。

 

前原一誠 (まえばら・いっせい)1834~78 享年43

 四十石の下級藩士佐世家の長男で、はじめ佐世八十郎と称した。父親の勧めで入門。その時点で最年長の塾生に。

 松陰は一誠の人柄を愛し「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。その才は久坂に及ばす、その識は高杉に及ばざるも、その人物の完全なること、2人も遠く及ばない」と語った。藩命で洋学を研究。四境戦争では小倉攻撃軍の参謀、戊辰戦争では北越征討総督府参謀を務める。維新後、政府の旧士族への処遇を見かね、萩の乱を起こし処刑された。

 

伊藤俊輔 (いとう・しゅんすけ)1841~1909 享年69

 庄屋下役の農家に生まれ、親子ぐるみで足軽伊藤家に養子入りした。利介とも称し、のちに博文と名乗る。

 来原良蔵の紹介で村塾に入門。松陰から「中々周旋家になりそうな」と評されるが、在塾期間は短い。師の死後は高杉らと親しく、英国から帰国後、功山寺挙兵に加わった。維新後、政府の要職を歴任し、初代内閣総理大臣。八ルビン駅頭で凶弾に倒れた。

 

<掲載誌紹介>

2015年2月号

今から150年前、日本が果たした一大変革である明治維新。その震源地こそが、長州藩の城下町・萩でした。「民を救い、日本を守るにはどうすればよいか」。兵学者である松陰は、その命題を若者たちに問い、自らも一緒になって考えます。そんな松陰を信頼し、支える妹や杉家の家族。「維新の奇跡」を起こしたものとは、果たして何であったのかを探ります。
第二特集は跡見花蹊、香川綾、下田歌子ら「女子大学創立者ものがたり」です。

 

 

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