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生き方

大林宣彦の体験的仕事論・チャンスのつかみ方

語り:大林宣彦(映画作家)/構成:中川右介(作家)

2020年04月11日 公開 2020年04月11日 更新

新たな発明は「失敗」から生まれる

「失敗は成功のもと」とよく言われますが、映画の現場でも、本当にその通りです。

たしかに、今の映画作りは、どうも失敗を許さない風潮があるようです。実は昔からそれは同じだったんだけど、人はいつでも「今」に不満がある。だから「今は」、「今は」と今を不満がる。昔も今も予算などの関係で、予定したスケジュール通りに撮らなければならないという条件は同じでした。でも今は、例えばモニターがあるから、監督は役者を直に見ないでモニターばかり見ることになります。(中略)

でも、僕は撮影中にモニターは見ません。役者を見ています。役者の中でも、もうベテランといっていい年齢になった三浦友和君は、「最近の監督はモニターばかり見て、僕たちのことを見てくれない」と嘆いていましたが、その気持ちはよくわかります。

監督は役者と直に接しないとダメなんですよ。人間関係は対話ですから。

先日、ちょうど僕の息子くらいの世代の若い監督である井口昇君と話す機会があったんです。ちょうど中川(右介)さんのかつての角川映画についての『角川映画1976-1986』という書物が発売されて、その出版記念のトークイベントでしたよね。中川さんがこのご本をお書きになっていたころ、僕はその取材を受け、それが中川さんとの初対面でした。そのころ井口君は今の時代の角川映画で1本撮っていて、それでこの3人の鼎談となったのですね。すると、中川さんと井口君とは10歳近く離れているのですが、同じ高校の先輩・後輩、しかも、2人とも映研で図書委員だったんですね。その会場にPHPの方がいらしていて、それが今回のこの本につながる。面白いですね。気がつかないうちに、どこかでご縁がつながっている。

で、そのとき、井口君とモニターの話題になって、井口君が「僕も見たくないんですが、照明技術者が見てくれと言うんですよ。失敗が許されないので、監督に見てほしい」と。

だけど、とくに照明部のスタッフはモニターを見ながら照明を当てたりしてはいけませんね。モニターを見ながら光や色彩を作っていくと、結果としてただの塗り絵になってしまう。見ないでいると頭の中で考える。その頭の中で考えたことがどう映し出されるかは、モニターを見たらその場でわかるけれど、これも見ないほうが実は創造的でスリルがあって愉しい。

たしかに、モニターを見ないで撮ると、明る過ぎたり暗過ぎたり、とんでもないところでハレーション、つまり余計な光が入ったりしますよ。でもそれが、思いがけない、人知を超えたものを生んでくれる。その面白さ、そういう予定しないものを生み出すことが、創造。

「失敗は成功のもと」、「失敗は成功の母である」なんて言いますけど、そういう言葉には知恵が含まれている。失敗から、人間技を超えた、奇蹟が生まれるのですね。

今は仕事に限らず、恋愛でも就職活動でも受験でもなんでも、失敗しないようにということから始めますね。これは、どうなのかな。創造の仕事、表現の仕事は、失敗を恐れてはダメ。恋愛だって創造だし、失敗の中にこそ相手に対する新しい発見があるのですから。
 

撮影中にトラブルが起きたら、「チャンスが来た」と思う

「失敗は成功のもと」と話しましたが、もう1つ、「トラブルは成功のもと」。これも言っておきたい。

企業ではトラブルは嫌われるかもしれませんが、僕に言わせれば。トラブルこそチャンスです。映画の撮影はトラブルの連続です。ロケに出たら、とくにトラブルというか、「予期せぬ出来事」の連続になります。例えば晴れるつもりでいたのに雨が降るなんてことは年中ある。僕はそういう予定しない事態になると、「来たぞ、来た来た、チャンスが来た」と思うことにしています。トラブルの連続は、チャンスの連続ってことです。

例えば運動会のシーンを撮るためにロケに行ったとします。運動会といえば晴れた青空の下でやるものです。そのつもりで用意していたのに雨になった。ロケ先で「雨だ、撮影は中止だ」となったらもうやることがないので、グチをこぼすかヤケ酒を飲むしかなく、つまらない一日を過ごすことになります。でも僕は、「この雨はチャンスだぞ。雨の中で運動会をやってみよう」と考える。

誰もが人生の中に「雨の運動会」の記憶があるはずです。みんな忘れてしまっているけれど、たぶん、誰にでも、運動会が雨になったことが一度はあったはず。楽しみにしていたのに中止になったこともあれば、途中で雨になってずぶ濡れになりながら頑張ってやってしまった運動会もあるでしょう。

僕たちの時代、運動会となると家中みんなで観に来て、昼休みには校庭に家族みんなで集まってゴザを敷いて、愉しくお弁当を食べるものでした。だけど、ある年は雨になって、せっかく作ってもらった弁当も、僕たちは教室で、親は講堂でと、別べつになりました。つまらない、というより悲しかったですね。

僕はすばしっこい子でかけっこが速かったんだけど、雨の運動会では水たまりで滑って転んでビリッケツになってしまいました。しょんぼりして家に帰ったら、まず焚きたての熱い風呂に入れられて、それで母親が体を拭いてくれて、あたたかいご飯を食べさせてもらった。そのときのご飯がやたらうまくてね。切ないようなお母さんとの記憶。なんだか温かい、とてもいとおしい運動会の日があったんです。でも、そんなこと忘れていました。

ところが、映画で「雨の運動会」をやろうとしたら、とっくに忘れていたことを思い出したんです。そんなことがあったなあと、あのときのことを思い出して、そういうふうに演出してみようかなとやってみる。

さて、これが肝要なことですが、映画を見ているお客さんは濡れない、当たり前ですね。雨の中で苦労するのは僕たち映画を撮るスタッフと俳優さんです。そうやって僕たちが苦労して撮った「雨の運動会」をお客さんは濡れないで見る。これが苦労のしがい。これはもう至福ですよ。

誰の中にも同じような経験はあるので、「ああ、雨の運動会か。人生ってのはそういうものだ」みたいな名シーンになる可能性がある。

もし予定通り晴れたら、当たり前に撮って、チャッチャッと終わってしまう話が、「雨の運動会」になってしまったことで、お客さんが自分の人生の体験の中から想像力で何かを引き出し、それと映画とが合わさって、何か新しい感動が生まれるんです。

こんなふうに、そのとき、君ができることを君らしくやって、何か新しい発見をする。だから雨もチャンスなのですね。

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