いのちの教育者、辻光文先生(2)~錨を下ろす港がない子どもたちと共に
2015年12月03日 公開
『苦しみとの向き合い方』より
母に捨てられた子の悲しみ
道を踏み外してしまったS子は、こんな寂しさを抱えていたと日記に書いた。
「1年生に上がるまえのことやった。おかあちゃんがキャンディ買うておいでとお金をくれはった。そいでお店に買いに行ってキャンディ買うて帰ってきたら、おかあちゃんがよそのおっちゃんとダンプカーに荷物をつんではった。弟はもう車に乗せられとった。
私が早う帰ってきて、ダンプカーに荷物をつんでいるのを見られたのがまずかったのか、おかあちゃんは私をつれてまた買い物にいかはった。さいしょはぞうりを買うてくれて、つぎに洋服を買うてくれはるという。200円お金をもろうたので、いろいろ洋服を見て回っていると、おかあちゃんがいなくなった。2階の売りばもさがし回ったけど、見あらへん。
わんわん泣いてさがしまわっとったら、店の人が放送してくれはったけど、おかあちゃんは姿を見せへんかった。たまたまおらはった近所の人が家につれて帰ってくれはったけど、家にもおかあちゃんも弟もおれへんかった。おかあちゃんは弟だけつれて、ダンプカーのおっちゃんとどこかに行ってしもうた。私をひとりのこして……」
S子は父と共に捨てられたのだ。同じくダンプカーの運転手をしていた父はほどなく再婚し、S子は施設に預けられた。母に捨てられたショックは、S子の情緒を粉みじんに砕いてしまった。いつしか陰日向のあるいじけた性格になってしまい、その場をとりつくろうために白々と嘘を言うようになった。当然他の子といさかいが多く、教諭に反抗し、たびたび施設を逃げ出した。父親の元に舞い戻っても、居場所がなく、施設に連れ戻された。万引きや盗みを働き、警察に捕まった。
とうとうその施設では手におえないと、S子は大阪・北摂の丘陵にある阿武山学園に回されてきた。S子はトラブルが多い子どもだったが、それでもまだ父親が会いに来てくれる間はよかった。しかしその父もしばらくして、音信を絶ってしまった。S子が中一になった頃、父親は行き倒れて、身元がわからないまま、火葬されていたということがわかった。父の遺品として古ぼけた定期入れが届けられたが、S子はそれを肌身離さず持ち歩いていた。S子は天涯孤独の身になってしまったのだ。
生活態度はいっそう不安定なものになり、表面的なごまかしが多く、トラブルばかりだった。辻さんは悪態をつき、あばれるS子をもてあまして、この子さえいなければとため息をつくこともあった。
私はS子のいのちを見ていなかった!
ところがS子が中2になった夏、以前から異常を訴えていた首と左手指が引きつった。精密検査の結果、悪性腫瘍と診断され、急遽入院した。病名を知らされていないS子は喜々としているのがいじらしかった。医者は暗い顔をして、助からないかもしれないと言った。
辻さんはS子が二度とこの美しい山河を見ることができず、間もなくこの世を去ってしまうかもしれないと知り、S子のためならどんなことでもしてあげたいと思った。それまでの「S子の指導のために」ということではなく、S子がほんとうにいとおしいと思えるようになった。
それまではS子を世話していると思っていたが、ほんとうは何も見ていなかったことに気づいた。自分の力でS子を矯正できると思っていたが、それはあまりにいのちというものを知らない傲岸不遜な考えだと気がついた。今はS子を抱きしめ、心からお詫びしたかった。
S子の入院生活は1カ月続いた。でも、病状は悪化しなかったので退院した。
それからのS子はほんとうに変わった。自分のいのちを積極的に生きるようになった。嘘をつくこともなくなり、新しく入所してくる子どもたちの世話も積極的にするようになった。
中3を終えて阿武山学園を出て、准看護師として病院に勤務し、看護学校に通った。ところが惜しくも挫折して看護学校を中退したので、看護師にはなれなかったが、気を取り直して、今はレストランのウエイトレスとして元気に働いている。
今はすっかり白髪になった辻さんは、S子のことを振り返って言う。
「私は素行の悪い問題児を指導していると思っていましたが、ほんとうはS子のいのちを見ていなかったのです。S子が騒ぎを起こすと、この子さえいなかったら、ここのグループはうまくいくのに……と、ついつい思ってしまいました。でも、問題はS子にあったのではなく、その子を全面的には受け入れていなかった私に問題があったのでした。
窮鼠猫を噛むということわざがあります。ネズミは猫よりも弱い動物ですから、普段は猫に立ち向かったりはしません。ところが追い詰められて、反撃に出ざるを得なくなると、自己防衛のために猫にでも噛みつきます。
問題児の場合も、追い詰められた事情を理解せずに、悪い子としてレッテルを貼ってすましていた私の方に問題があったのです。S子はそのことを私に教えてくれたのでした。
学園に新しい子が来るというと、みんな決まって、『先生、今度来る子ってどんな悪さをやらかした子?』と訊くんです。でも私は言うんです。
『いや、最初から悪い子っておらんのよ。あんたらもここに来るときは寂しかったやろ。どんなところに行かされるんやと心配やったろ。ほやからその子がどんな無茶をしようが、腹を立てんと仲ようしてあげてよ。よう面倒見てあげるんやで』
すると、『よっしゃ、わかった。まかしとき!』と受け入れ態勢ができあがっていきます。みんなして子どもの内からの叫びを聞いてあげたとき、錨を下ろす港がなくて放浪せざるを得なかった子どもも落ち着いてくるんです」
子どもたちは辻さんから大きく受け入れられたから、自由で屈託なく過ごせるようになった。阿武山学園は辻夫妻を親とする家庭に変わっていき、子どもたちの情緒が育ち、錨を下ろすことができる母港になった。子どもたちは落ち着きを取り戻し、ごく普通の子どもになっていった。こうして心の交流を支えた「交流日記」は大学ノート800冊あまりになった。
私は冒頭に「災いは下から起こるのではなく、上から起こる」という佐藤一斎の炯眼を紹介した。人のせいにするところでは、問題は何も解決しない。非行少年少女のことは彼らの問題ではなく、大人のわれわれのあり方が問われているのだ。