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生き方

渡辺和子 人を許した時、許した人は自由になる

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)

2015年11月04日 公開 2022年11月16日 更新

渡辺和子著『幸せはあなたの心が決める』より

理不尽な相手は、無視するのではなく、距離を置いてみよう。 

 「許す」気持ちを持つことは、他人のためにも必要なことですが、自分もまた救われます。教皇ヨハネ・パウロ3世が、
「人を許す時、許した人は自由になり、解放されます。人を許す時、その人は未来を創造的に切りひらいてゆくことができます」
と言っていますが、他人を許さない時、その人は不自由になります。

 その理由を教皇は続けて、次のように言っています。
 「人を許さない人は、また、他人の支配下にある人なのです」
 これはおもしろい言葉です。
 「許さない」と言う人が上位に立っているかと思うと、実はそうではなくて、その「こだわり」に縛られ、許していない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。

 ある人がパーティに出席していた時のことでした。
 シャンペングラスを手に立っていると、突然一人の男が、わざとぶつかってきて、そのはずみにシャンペンがこぼれ、服にもかかってしまいました。
 「何と失敬なやつ、いったい何の恨みで……」
 そう思いながら、くだんの男の姿を追っていると、その男が、他の人たちにも同じようにわざとぶつかっているのが見えました。
 そこでその人は、「ああ、あれは彼の問題だ。私のではない」と呟いて気分を転換したというのです。

 つまり、自分に何かしら悪いところがあるから、ぶつかってきたというのなら、かかわってゆかねばならないが、そうではない。これは、「相手の問題なのだ」と割り切ることがたいせつで、心の平静を保ち、自分に対して理不尽なことをしたり、無礼なことを言ったり、したりする人を「許す」ことと無関係ではありません。

 「それは、無視することですか?」と尋ねられたことがあります。
 ある意味で、そうかも知れません。
 しかし、「あんなやつ、放っておけばいい」という無視ではなくて、「私があの人のことで心を騒がせる筋合いではない」という、「距離」を置く生き方といったらいいでしょう。

 そうでなくても、自分の心をいっとき乱されて口惜しいのに、それを深追いして、これ以上、自分のかけがえのない一生の時間を無駄にしたくないというプライド――「他人の支配下」に自分を置いたままにしたくないという自己解放への願いと言っていいかも知れないのです。

 自分の生活をたいせつにするためには、自らの感情を自分でスッパリ「断ち切る」ことが時に必要です。
 「もう、これ以上このことで悩むまい」と。
 しかし、人間のこと、断ち切ったつもりでも、なかなか忘れられず、許せないこともあります。そんな時、時間が一番いい薬なのかも知れません。

著者紹介

渡辺和子(わたなべ・かずこ)

ノートルダム清心学園理事長

1927年、教育総監・渡辺錠太郎の次女として旭川に生まれる。1951年、聖心女子大学を経て1954年、上智大学大学院修了。1956年、ノートルダム修道会に入り、アメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学院に学ぶ。1974年、岡山県文化賞(文化功労)、1979年、山陽新聞賞(教育功労)、岡山県社会福祉協議会より済世賞、1986年、ソロプチミスト日本財団より千嘉代子賞、1989年、三木記念賞受賞。ノートルダム清心女子大学(岡山)教授を経て1990年3月まで同大学学長。現在、ノートルダム清心学園理事長。
著書に『美しい人に』『愛をこめて生きる』F愛することは許されること』『マザー・テレサ愛と祈りのことば〈翻訳〉』『目に見えないけれど大切なもの」(以上、PHP研究所)『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)など多数。

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