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弱いからこそ開かれた競争を

冨山和彦(経営共創基盤CEO)

2011年09月19日 公開 2023年10月04日 更新

 脱原発か?原発推進か?で国論を二分して政権延命を図ろうとする政局ゲームが、じつに3カ月に及んだ。総理とその周辺にまとわりついている「サヨク」的な学者、評論家、文化人を除いて、そんな単純な二分法でこの問題を割り切れると思っている国民はそう多くない。だから小泉政権における郵政解散のときのような盛り上がりも起きない。

 この動機不純で非生産的な論争で時間を空費しているあいだに、被災地復興において中央政府側が取り組むべき問題に関わる停滞は著しい。復興特需で、被災地の一部で微妙な好景気現象が起きる一方、被災者の生活再建、放射能汚染地域の除染問題や農水産業の復興など、中央政府による法律事項、予算事項に関わる支援が必要な課題は前に進まない。じつに切ないコントラストが被災地内に生まれつつある。日本全体に目を転ずると、電力供給に関する不安感が高まりつづけるなかで、超円高が進行し、産業と雇用の空洞化には拍車がかかる。

 考えてみれば、安倍内閣が退陣したあたりから、この国の政治は、「国が国民に対して何ができるか」ばかりを国民に訴えるようになり、経済政策は反市場、反競争、反産業、反開国へと急旋回していった。民主党への政権交代も、基本的にはその延長線上で実現している。この間、明らかにこの国は再び衰退モードに転落しつつあり、その極みに大震災と原発事故が起きてしまったのである。

 しかし、こんな政治を選択したのも私たち国民自身だ。政権交代が実現した2年前の総選挙。国民の少なからずが、国と民主党に過剰な期待をもってしまったのではないか。霞が関埋蔵金や事業仕分けによって巨額の資金が持続的に湧き出し、「国は自分たちにもっといろいろやってくれるのでは?」という期待。選挙という民主的な手続きで選ばれた政治家が官僚に代わって運転席につけば、もっと上手に日本国という列車を運転してくれるという政治主導への期待。しかし、現実経営に携わる者として、またかつて政府部門(産業再生機構)において当時の目玉政策の遂行にも関わった者としての実感でいえば、これらの期待はいずれもまったくの幻想である。

 国家財政は、JALやカネボウの末期よりもひどい状況だ。そこで現場カイゼン型の努力で多少の金をつくっても、経営陣の頭数削減や給与カットをしても、しょせんは焼け石に水。資産売却も一過性の資金繰り原資にすぎない。おまけにバラマキ政策オンパレードは、まるで倒産寸前の企業が、従業員の福利厚生や年金を手厚くする議論をやっているようなものだ。

 政治主導にしても、国家という巨大組織を経営するうえで、きわめて初歩的な間違いを犯している。大手の鉄道会社やバス会社の経営者が自ら運転席につかないのと同じく、政治家自らが運転席につくなどありえない。せいぜい下手くそな運転で現場が混乱するだけだ。国家経営者たる与党政治家たちの仕事は、しっかりした政策立案、すなわち法律や予算に落とし込める実現可能な政策案を練りあげ、それに基づいて現場サイドの官僚を方向付け、動機付けて、政策を具体化し、執行させることである。ドラッカーのいうとおり、「経営とは自分以外の人びとを動かして物事を成し遂げること」なのである。できもしない夢物語やきれいごとを、緊急記者会見でうれしそうに語るのは与党政治家の仕事ではないし、逆に役所の課長補佐がやるような枝葉末節な仕事を、素人の政務三役がこねくり回すのもナンセンス。

 ただ、幸か不幸かここまでくると、バラマキ政策の非現実性も、理念先行の政治主導ごっこの危うさも、嫌というほど多くの国民が実感したはずだ。現実の国家経営には魔法の杖などない。やはり国の成り立ちの基本は国民自身、すなわち民間主導での自助努力、共助努力である。それなくしては、本当に気の毒な人びとを公助によって国が支える余力もなくなってしまう。福澤諭吉翁の言葉、「一身の独立なくして一国の独立なし」のとおりだ。その意味で、このようなメチャクチャな政治状況がもうしばらく続いたほうが、日本国民自身がもう一度、覚醒、いや、本来の矜持を取り戻すのにはいいのかもしれない。

 そんななか、女子サッカーの日本代表チームがワールドカップ優勝という、まさに目の覚めるような快挙を成し遂げてくれた。上の世代がやれ格差はけしからん、競争社会が日本をダメにしたと寝言をいっているあいだに、彼女たちはガチンコのグローバル競争に身を置きつづけ、何度も苦杯をなめながらも、ついに世界の頂点を極めたのである。それも体格面での劣勢を、チームワークとテクニックと粘り強さではね返すという、じつに日本的なスタイルで。

 人間は弱い生き物だ。だからこそ競争のプレッシャーや、世界の多様な文化や社会からの刺激がなければ、努力も成長もできない。弱いから競争がいけないのではなく、弱いから開かれた競争が必要なのだ。そして国であれ企業であれ、当該集団の個性、固有の強みというしっかりした縦糸がないと、世界レベルでの競争という普遍性の横糸に対峙して、偉大な歴史を織り出すことはできない。むしろグローバルな競争原理を受け入れることが、日本が日本らしく、日本人が日本人らしくあることの重要性を、より厳しく私たち自身に問いかけることになる。

「なでしこJAPAN」のメンバーは、恵まれない競技環境にありながらプロフェッショナルとして自立し、世界から日本の地方まで、あらゆる場所に活躍の場を求めてきた。そしてグローバル競争に真正面から立ち向かい、厳しい現実に対峙したからこそ、緻密で組織的な日本人らしいサッカーを作り上げて勝利した。事実は雄弁である。やはり世界に開かれた競争があることは善だし、その競争に挑む自立した若者の勇気こそが、祖国日本の未来への希望なのだ。

 競争から逃げない。国に頼るよりも、まずは自助自立と相互共助。それはこの6カ月間、中央政府の機能不全に対し、東北地方の被災地において、現場を支える多くの人びとが選んだ道でもある。この国の進むべき道について、もう結論は出ている。

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