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第二次世界大戦における最優秀戦闘機は?

三野正洋(元日本大学非常勤講師)

2017年06月04日 公開 2024年12月16日 更新

大戦の前半は零戦、後半は……

もう半世紀近く前になるが、ある雑誌の企画で数人の専門家が、戦闘機に関する対談を行なった。そのテーマは「第二次大戦における最優秀戦闘機は何か」というものであった。長く続いた議論の末の結論は、「大戦の前半は零戦、後半ではP- 51」であった。

これについては全員が一致していたように思う。

ここでは、ノースアメリカンP- 51マスタングについて語りたい。NA- 73という設計番号で開発は始まり、わずか半年たらずで、本機は進空する。しかし装備されていたアリソンエンジンの出力不足で、所定の性能は得られなかった。その一年後、イギリス製のマーリンエンジンに変更したことで、マスタング(野生の馬)は完全に生まれ変わり、その名のごとく大空を駆け回る。

とくに1700馬力エンジンを装着し、現代のジェット機と同じ形の水滴型風防となったD型は、欧州、アジアで大活躍を見せる。

最高速度は700キロを超えているので、日独の戦闘機では追従は難しい。

さらにマスタングのもうひとつの特徴は、これだけの高性能を持ちながら、3000キロを超える航続力を有していたことである。当然であるが、燃料の搭載量と性能とは相反する。飛行時間、飛行距離を長くしようと燃料を増やせば、必然的に性能低下を招くのである。これは太平洋戦線における零戦の例を見ても明らかである。

マスタングはこれをうまく両立させ、活躍の場を広げていった。

イギリス本土から発進し、ドイツ本土を爆撃するB-17、B-24に随伴し、それらをドイツ機の攻撃から守る長距離護衛戦闘機こそまさに花形であった。空戦では同様な能力を持つスピットファイアであっても、とうてい達成できない任務と言えた。

爆撃隊の乗員たちは、離陸から着陸まで、ずっと傍に付き添ってくれるマスタングを、感謝と敬意を込めて“リトル・フレンズ”と呼んでいた。

このため生産は急ピッチで進められ、D型のみで8000機も造られたのである。さらにアジアでも時間とともに縦横に飛翔し、日本軍を苦しめた。まず中国方面、続いて東南アジア、そして1945年に入ると、硫黄島から日本本土に来襲する。この距離は約1200キロであった。これを往復し、しかも本土上空で戦うとなれば、他の戦闘機では決して真似することはできない。

P- 51が硫黄島に進出してから、B- 29爆撃機の損害は大きく減ったのである。

やはり誰の目にもノースアメリカン51マスタングは、大戦における最優秀戦闘機と映るはずである。

ここまで無敵の感があるP-51だが、やはり影を宿す出来事も記しておきたい。

終戦前の6月のある日、100機を超える本機が、硫黄島から日本を襲った。

その帰途、天候が急激に悪化、マスタングの群れを巻き込んでいく。優秀な航法支援システム、必要な計器が存在しても、編隊は無事では済まなかった。

じつに24機が基地までたどり着けず、海上に不時着。アメリカ軍は全力でパイロットの救出に努めたが、助けられた者は数名にすぎなかった。

1942年の夏から秋にかけて、硫黄島─日本本土とほぼ同じ距離であるラバウル―ガダルカナル間を往復しながら戦い、多くの損害を出した零戦隊の悲劇を、たとえ最優秀戦闘機であっても再現してしまったのであった。

しかしマスタングが大損害を出したのは、この出撃だけであったから、やはりその性能は最大限の評価を受けるべきであろう。

※本記事は、三野正洋著『第二次世界大戦「戦闘機」列伝』より、その一部を抜粋編集したものです。

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