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生き方

あせらず、あわてず、前に進む。

塩沼亮潤(慈眼寺住職/大峯千日回峰行大行満大阿闍梨)

2011年10月20日 公開 2022年09月29日 更新

嫌いな人がいる…仲良くしようと努力してもどうにもならない。慈眼寺住職・塩沼亮潤氏もかつて修行中にどうしても好きになれない人がいたという。しかし今ではその人がいたからこそ成長できたという境地に至ったと語る。どのように乗り越えたのだろうか。

※本稿は、塩沼亮潤著『執らわれない心』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。

 

「こうありたい」と念じ、日々努力を欠かさない

私の昔の失敗談をお話しさせていただくことによって、何かしらの生きるヒントを得ていただけたら幸いです。その失敗とは、修行時代にある一人の人間がどうしても理解できなく、悩みの渦にいた時代がありました。

なぜかその人にだけは自分のやさしさや思いやる心を素直に表現できない人がいました。僧侶となり、修行が進んでくると、嫌いな人の数はどんどん少なくなっていったのですが、最後までその人のことだけは、どうしても受け入れられませんでした。

皆でヨーイ、ドンと真理を目指し修行がはじまりますが、個人の心の成長はさまざまです。中には自分のことだけしか考えていなかったり、自分が良くなるためなら人をけおとしてもという人と縁がある場合もあります。

お寺といえども、すべてを悟った人ばかりではありません。迷いの中から真理を目指す人たちが集まって生活していくわけですから、会社や学校といった一般の方々の社会と何も変わりがありません。

しかし、そういう人と緑があった場合は大変な精神的な苦痛を感じてしまうものです。現在の心境であれば、そうしたマイナスの出来事も、仏さまが与えてくれた試練と受け止めてプラスに転じることもできるわけですが、若い頃の自分には頭でわかっていてもなかなかできません。

「この人が嫌いだな」「苦手だな」と思っているのは、その相手に対して、執らわれてしまっているからです。その人に執着してしまっているのです。その執らわれから解き放たれることで、精神的に自由になることができ、マイナス的なこともプラスに転じてより幸せに生きることができるようになります。

自分で自分に言い聞かせます。「お坊さんならばどんな人でも分け隔てなく付き合えなくてはならない」。まさに頭ではそう思っていてもできない。それにもかかわらず人に真理の道を説いたならば、言葉に力がこもってないことになるし、偽善者と言われても仕方がありません。

心がすっきりしないまま、迷いの渦の中で苦しんでおりました。しかし、あきらめずに努力をしていると、ある日あるときに奇蹟がおきたのです。

「今までこの人を受け入れられなかったのは、自分の心が小さいからなのだ」と心から懺悔した瞬間にその人に対してやさしさを素直に表現することができました。するとその人からもやさしい言葉が返ってきて、人を思いやることも呼吸と何ら変わらないなと思いました。

そして、「この人がいたからこそ、自分は成長することができた」と心から感謝したのです。その瞬間、マイナスの存在でしかなかったその人が、自分の成長のための存在だったということに気づいたのです。

なぜ、そのような心境に至ったかというと、どんな人も嫌わず生きていきたいという気持ちを持ち続けていた結果、ある日自然にそれができていたのです。

言葉では表現できないのですが、それは自転車の乗り方を覚えたときの感覚と似ています。何度も転んでケガをしてがんばって努力しているうちに、乗れるようになったという感覚みたいなもので、いつの間にか頭で考えるのではなく、自然にできるようになっていた、としか言いようがないのです。

初めは何度も転んで、痛い思いをしても、「自転車に乗りたい」という意思を強く持ち続け、諦めずに練習するうちに、やがて誰でも自転車に乗れるようになります。一度覚えた感覚は生涯忘れません。しかしそうやって覚えた乗り方を、言葉や文字でうまく表現しなさいと言われてもできません。

それと同じく、自分の心も「こうありたい」と強く念じ続けて、そのための努力を日々重ね、自分なりに探求していけば、やがて挫折と挑戦を繰り返しているうちに、自分が望む心持ちが具現化されてきます。

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何事にも執らわれない

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