アムステルダムの街並み
スウェーデン、フィンランドなど北欧諸国を抑えて「子どもの幸福度」1位に輝くオランダ。400年の交流がありながら、日本人はこの小国をあまり意識してこなかった。日本人にもっとも欠けている「不確実性に強い知的弾力性」はどこからくるのか?
※本稿は 『幸せな小国 オランダの智慧』(紺野登著)より一部抜粋・編集したものです。
東日本大震災で逃げなかったオランダ大使館
オランダは日本と400年以上の深い交流のある国である。日本とは異なる文化をもっているが、その関係は続いている。震災後、日本からの欧州への積み荷が最初に入港した(放射能汚染貨物が欧州で最初に発見された)のもオランダ(ロッテルダム港)だ。かつて日本はずっとオランダから学んでいた。
だが、現代の平均的オランダ人にとって日本人はそう身近な存在というわけでもない。逆もそうだろう。これまでの日本のモノづくりの世界、とりわけ製造業についてならばドイツに学ぶことが多いだろう。日本の製造業と重なる企業も多いし、まじめで、日本人と対話する姿勢ももっている。小国のイノベーションなら、フィンランドやデンマークという選択もあるだろう。
なぜいまオランダなのか?
それはオランダが、「不確実性に強い国」の1つだからにはかならない。
そもそも彼らには、自分たちで国をつくり、さまざまな災害や危機を乗り越えてきた歴史がある。世界最初の国民国家として、現代の西欧社会の実験場となった歴史ももつ。日本との共有の歴史、そして同時に、ある程度の距離感というか、差異性もある。日本が学ぶべき必要かつ十分条件をもっているのがオランダといえる。
「3・11」からひと月少々たったころ、「読売新聞」の小さな記事が目にとまった。東京・芝にあるオランダ王国大使館のことだ。震災後、東京から大使館が避難しなかった国がある。その1つがオランダだったという。どの国が逃げたかなどと、くだらない詮索をしたいのではない。特筆すべきは、彼らの独自の対応姿勢だった。
福島第一原子力発電所事故を受け、東京都内では、各国大使館の一時閉鎖、「東京脱出」が相次いだ。そんな中、東京にとどまり、冷静に大使館業務を続けた国がある。オランダだ。……(中略)……「なぜ、東京にとどまったのか」。私(注・記者)は先日、大使に会い、率直な疑問をぶつけると、大使は身を乗り出してこう説明した。「第一の理由は、『原発事故による放射線量は、医学的に、東京に住んでいる人たちに影響を及ぼすレベルに達していない』とのオランダ政府の判断。第2の理由は、関東には約700人のオランダ人がおり、大使館として撤退はできない。そして第3の理由は、日本とオランダの400年以上の長い関係に大きな責任を感じており、事態が悪化した時にとどまることも『トモダチ』の証しだと考えた」
(「読売新聞」2011年4月25日付)
それから数カ月後のことになるが、アムステルダムで友人のビジュアルアーティスト、ハラルド・フルク氏に会ったときに、このエピソードを話す機会があった。開口一番、「彼らは自分自身の判断でそうしたにちがいない」。それがオランダ人だ、というのだ。彼は以前、長崎のテーマパーク、ハウステンボスのアートワークの制作にもかかわった。日本についてもよく知っている。
3月11日午後2時46分、同記事によれば、都内の式典に出席していたフィリップ・ドゥ・ヘーア駐日大使は「並の地震ではない」と感じ、直後に芝公園の大使館に急行、24時間体制の危機対応チームを発足させた。阪神・淡路大震災を経験したスタッフも加え、情報収集や被災地のオランダ人の安否確認に向け陣頭指揮をとった。首都圏在住のオランダ人からは「関東から出たい」「出国したい」との声も強まったが、大使館として国外退避はさせないと判断した。
本国からの指示やしがらみで残ったりしたのではない。本国の情報をもとにしながらも、そこには現場での合理的な、責任をもった判断力があったと考える。全体を意識しながら、現場での自律的な判断と実践を行ったのだ。
ひるがえって日本の「3・11」でぼくらが目にしたのは、災害現場における日本人のすばらしい協力、「現場力」だった。が、同時にいまふりかえって「ビッグピクチャー」(問題の全体像)を眺めてみると、その限界も見えた。それは現場とトップの分断、現場を把握していないトップの指示などだ。
「日本は、現場は優秀だがトップは力不足」が常套句(じょうとうく)になっている。そう言って、それなりにわかったことにしてしまうのは簡単だが、現場にだって限界はある。中央からコントロールするのではなく、また現場まかせでもなく、現場での自律分散的な行動を支援する組織でなければならない。
たとえば企業でも、新しい試みがなかなか進まない様子を多く目にする。同じことだ。日本には強い現場があると言っているうちに、全体が縮んでいく感覚を覚える。現場力を支える中央やトップの適切な信頼、現場での自律的判断力、つまり全体と個別のバランスが「有事」には重要なのだが、その柔軟性あるいは「知的弾力性」が、いま日本にはいちばん欠けている。
洪水と闘ってきたオランダの1000年
オランダは、そうした社会的な思考(ソーシャルシンキング)を災害の歴史を通して培ってきた。麦角(ばっかく)中毒(ライ麦に寄生する菌で起きる中毒症状で「聖アントニウスの火」とも呼ばれる)をはじめて報告した9世紀半ばの「ザンテンの修道院年代記」には、当時の天変地異の様子が記録されている。その1つに、838年12月26日にフリースラント(現在のオランダ北部)で起きた大洪水がある。洪水はこの地域のほとんどを覆い、2437人の犠牲者を出した。
オランダ(14世紀までその地域は、ほぼフリースラントと言っていい)は、その後も多くの洪水に見舞われた。1014年には数千人が死亡、1212年には6万人の犠牲者が報告されている。続く1219年に3万6000人、1362年に2万5000人、1421年の「聖エリザベス洪水」では数万人。14~19世紀の「小氷河期」への移行期にあたる13世紀には、数十回の大洪水によって数十万の生命が失われたともいわれる。
これらかなり大型の被害を含め、記録されているだけでも数十年に1度の頻度で洪水に見舞われている。オランダは洪水のたびに大量の土地を流され、失った。それでも彼らは、こうした「低い地」(ネーデルラント)に住まわざるをえなかった。
しかしオランダは徐々に攻勢に転じる。大きな転換点は、13世紀以降の技術革新によってもたらされた。排水用の水車、さらに14世紀以降は風車が採用された。潅漑と排水、埋め立て、そして洪水リスクの低減が可能となった。こうやって災害を乗り越えることができるようになったオランダは、やがて大繁栄の時代を迎える。
ところが危機はふたたびやってきた。1953年2月1日未明から起きた大洪水が多くの人命を奪ったのだ。オランダはその克服をめざして、「デルタプラン」(デルタ計画)と呼ばれる巨大国家修復事業に向かう。それでも危機が去ることはない。21世紀に入ってからの地球温暖化の兆候は、海面上昇やアルプス氷河の消失による浸水や洪水のリスクを意味している。
オランダは、つねに災害や危機に対する能力を培ってきた。それはたんに防衛的な面だけではなく、イノベーションや持続的な経済運営にもかかわるものになってきた。その「能力」とはどのようなものなのだろうか。
それは人々のなかにある社会的な関係性の豊かさ、ソーシャルキャピタル(social capital = 社会関係的知的資本)である。技術力や経済力(カネ)ではない。そして、そのうえで発揮される、個と共同体に共有された問題解決のための思考法だろう。オランダ大使館がとった自律的な判断と実践は一例だ。カギは社会(さらには国家)と個人の相互依存の関係性にある。これを社会的共同体の「ソーシャルキャピタルの豊かさ」と見ることができる。
KIRO(知識イノベーション研究所)代表、多摩大学大学院教授、京都工芸繊維大学新世代オフィス研究センター(NEO)特任教授、東京大学i.schoolエグゼクティブ・フェロー
1954年東京生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。博士(経営情報学)。知識産業戦略、リーダーシップ教育、ワークプレイス戦略などの領域で知識経営とデザイン・マネジメントの研究と実践を続ける。2004年から10年までグッドデザイン賞審査委員。07年よりキッズデザイン賞審査委員。現在は「フューチャーセンター」などの考え方を日本に広めようとしている。