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「砂漠の狐」ロンメルが上官から指摘された“性格的な欠陥” その背景にある事情

大木毅(おおきたけし:現代史家)

2019年04月26日 公開 2024年12月16日 更新

<<現代史家であり、陸上自衛隊幹部学校の講師も務めた大木毅氏が上梓した一冊の書籍が注目を集めている。それが『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』である。

ロンメルはドイツ国防軍で最も有名な将軍で、連合国軍からナポレオンの以来の名将とも称されるも、ヒトラー暗殺の陰謀に加担したとされ非業の死を遂げる。

圧倒的に優勢な敵を何度も壊滅させた指揮官。それゆえにさまざまな神話めいたエピソードも生まれたが、同書ではそれらも検証し、最新学説を盛り込みつつロンメルの実像に迫っている。ここではその一節を紹介する。>>

※本稿は大木毅著『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

歩兵連隊への入隊が、ロンメルのキャリアに影を落とした

1909年、兵役年齢の18歳に達したロンメルに、父親は軍隊に志願すべしと言い渡した。ヴィルヘルム期(ドイツ第二帝制の時代)にあっては、家長の権威は絶対であったから、父親がそう決めた以上、ロンメルに選択肢はなかった。

ロンメルは最初、父親同様に砲兵連隊に入ろうとした。ところが、地元の第49砲兵連隊には、士官候補生の空きはないと断られてしまった。

ついで工兵隊に打診してみたものの、事情は同様、というよりも、もっと悪かった。ヴュルテンベルク王国軍には、将校の定員が36名の第13工兵大隊一個しかなく、士官候補生の入隊待ちリストは、砲兵隊よりも長くなっていたのだ。

「将校適性階級」(中級・高級官僚、大学教授、貴族、現役、もしくは退役した将校の家庭に生まれた男子)以外の者が軍隊で地位を得ようとした場合のルートは、おもに砲兵と工兵だったから、おのずから狭き門になっていたのである。結局、ロンメルとしては、歩兵の道を選ぶしかなかった(騎兵科は、「将校適性階級」が優先されるから、採用は望み薄だった)。

1910年7月19日、ロンメルは士官候補生として、ヴァインガルテンに駐屯する第124/第6ヴュルテンベルク歩兵連隊(連隊番号が二つあるのは、ドイツ帝国の歩兵連隊としては第124、ヴュルテンベルク王国の歩兵連隊としては第6であることを示す)に入隊した。

この時点で、ロンメルに、軍人を職業とする自覚があったかどうかは判然としない。だが、結果的には、そうした選択をすることになったのは間違いない。

しかし、その決断によって、職業将校としてのロンメルは、キャリア上の不利を負うことになった。

第一に、砲兵、あるいは工兵に士官候補生定員の空きがなかったという偶然が働いたとはいえ、「将校適性階級」の登竜門たる兵科に進めなかったことである。

第二に、ドイツ将校団の本流であるプロイセン軍でも、それに次ぐ存在であるバイエルン軍でもなく、傍流のヴュルテンベルク軍出身者として、軍歴を歩みだしたことだ。

そして、第三に――ドイツ軍のエリートコースである幼年学校・士官学校を経ずに、将校に任官したことが、ロンメルの軍人としての生涯に影を落としていくことになる。

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複雑なドイツ陸軍の「将校採用システム」

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