事業部制が実地訓練に
松下電器には、経営者を育成するシステムが戦前から存在していたことはよく知られている。1933年に採用された事業部制だ。当初は製品群別の三事業部体制を敷き、各事業部の経営を有能な幹部に任せた。幸之助によると、社の業容拡大や自身の体調不良などで、全事業の経営を満足に進めることが難しくなってきたからだという。
すると、半ば意図せざる結果として、各事業部から経営人材が続々と生まれてきた。なぜなら、各事業部は独立経営体であるかのごとく製造から販売まで一貫したシステムを擁し、幸之助はその経営を自主責任や自主独立の精神の名のもと、基本的に部下に任せたからだ。経営を託された幹部社員は、成果を出さねばならないから必死になる。これがまさに実地の経営訓練となったのである。
ところが、この事業部制による経営者育成も、時代が経つにつれ、必ずしもうまく機能しない場合が生じてきた。特に戦後の高度経済成長期には、松下電器の経営規模が巨大化するにしたがって、組織の硬直化がみられるようになる。複数事業部を管轄する事業本部制を敷くなど、何度か組織再編が行なわれたが、その帰結に幸之助がいつも満足したというわけではなかったようだ。中堅幹部の経営マインドの希薄化も、要因の一つであったと思われる。
とはいえ、高度経済成長期以降も、松下電器は将来を担う経営人材を、曲がりなりにも輩出し続けていたことは否定できない。
1973年7月、幸之助は会長職から相談役に退く。その際に発表した「代表取締役会長辞任にあたって」によれば、「私自身は本年数え年80歳になり、また若い優秀な同志の人も育ってきておりますだけに、会社が創業55周年を迎えたのを機に、これらの人たちに経営を任せることを考え、心おきなく代表取締役会長の職を辞任することにした次第であります」と、辞任の理由を述べている。
すなわち第一に、高齢であるから。そして第二に、松下電器の経営を後輩に託すことができるようになったから。自身がかかわらずとも、おのずと経営人材の育つ会社に成長したということだ。