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名古屋の”徳川家康”が熱く語る「日本は江戸時代から衛生管理の先進国だった」

徳川家康(名古屋おもてなし武将隊)&鬼塚忠(作家エージェンシー代表)

2020年05月19日 公開 2022年07月04日 更新

 

合戦時に石鹸を分ける、水道を整備する…衛生管理に気を配った徳川家康

町づくりうえで、力を注いだのが衛生面だ。特に、誰でも心配なく飲める清潔な上水道を作ることを命じた。

これは最も大事なことである。健康とは全ての要。儂は自身の健康管理の為に薬をつくるほど医学には精通をしており、水がこれに大きくかかわることを誰よりも心得ておった。合戦時においても、シャボン(石鹸)を兵卒に与え際も、きれいな水で体を洗い流させる事を命じた。

それまで、飲み水は井戸水を使うのが常だった。江戸の大部分は海岸沿いの低湿地を埋め立てた土地だったので、井戸の水は塩辛く、良い飲み水が得られない。

そこで、家臣・大久保藤五郎に命じ、町づくり(都市計画)の一環として上水道工事をさせた。後の神田上水の元となるのがこの小石川上水であり、川幅を少しずつ広げ、給水量を増やし続けた。

その水は、地下に埋めた木製や石製の配水管によって神田、日本橋界隈に給水されるようになった。この地下水路の水道網の距離の総延長は67キロに達した。

この清潔な水を供給する機構(システム)が、戦のない世と相まって後に際限なく広がる江戸を下支えした。

関ヶ原の合戦の後に将軍となった頃にはすでに、諸大名の家族を地元と江戸に交互に住まわせる参勤交代を構想し、巨大都市構想を描いておったがため、清潔な水の供給が急務であった。

結果、17世紀後半になると、江戸は、人口、面積、経済規模において世界最大の都市となったと儂は現世にて知った。

 

当時のロンドン、パリと比較する江戸の水道事情

(鬼塚)まだ敵にも成りうる豊臣家も案じて軍事都市にせざるを得なかった。江戸を戦に耐えうる町にしながら、衛生面にも気を遣うのはなかなかできることではないと思います。世界のほかの町と比べてどうですか?

(徳川)聞いた話では、その頃の江戸と並ぶ先進都市だったロンドンもまた上水道を、儂が小石川上水作らせた時からわずかに遅れて作らせたという。

ロンドンもまた良質な水源がなかった。そのため、60キロも離れた湧水から水を引く、ニューリバーという水道を完成させた。しかしこれだけ苦労して通った水道であるのに流水量が十分でなく、日にち制限や時間制限があり、じゅうぶんな水を供給できたなかった。

四六時中、水の絶えることのなかった江戸の上水とは比べものにはならなかったようである。

パリに至ってはもっと悲惨であったと聞く。当時、パリ市民の上水はと言うと、なんと、自らが下水を放流していたセーヌ川から汲み上げて使用していたのだ。つまり、パリ市民は汚水が混じる水を飲んでいた可能性がある。これでは衛生管理ができようがない。

ちなみに、パリが上水道を設けたのが儂の死後200年ほどで、かなり時が経つまで上水は整っていなかったようだ。

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江戸時代にすでにSDGsが実現されていた?

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