「もしドーハの悲劇が無かったら…」ゴン・中山雅史から今も消えない“あの記憶”
2020年10月21日 公開 2023年02月08日 更新
フランス大会、日韓大会を経ても払拭できない記憶
ドーハ以後の日本代表チームは、緩ゆるやかに世代交代していった。中田英寿、城彰二、川口能活らアトランタ五輪(1996年)で世界を経験した若い世代が頭角を現し、ドーハ組はしだいにチームを離れていった。
当初は僕もその一人で、実力不足のためW杯フランス大会の予選はほとんど参加できなかったが、チームのレベルが上がり、どんどん自信をつけていることは感じていた。自信に溢あふれた若い選手たちの存在がベテランに刺激を与え、切磋琢磨した結果だと思う。
僕自身は、「若いやつらと比べると自分は技術的に低いレベルだな」と思いながら、それでも戦うだけの気概をもっていた。
どんなに世代交代が進んでも、その気概をもち続けながら自分のやるべきことをやり尽くすことが、自分の求めるものへとつながっていくのだから、とにかく自分自身を高めるしかない。
結果的に、ドーハ組のなかでW杯フランス大会に出場することができたのは、僕と井い原はら正まさ巳みだけだった。僕らは同い年で、同じ大学の出身である。
代表選考は、「監督の戦略上の好み」としか言いようがない。どの選手をチョイスするかは、「こういう戦い方をしたいから、この選手が必要だ」という監督の考えによって決まってくるからだ。
僕自身は、ドーハでできなかったものを追い求めてここまで来た、という気持ちしかなかった。フィジカル能力、技術、戦術……。あの時の自分たちのレベルでは、予選突破という大きな壁を乗り越えられなかった。
だから、ドーハ以上のレベルになることをまずは自分に課し、その力を獲得し、維持していかなければいけない。そうしなければ代表には入れないし、チームとして大きな壁を乗り越えることもできない、と感じていた。
こうして出場したフランス大会。これでドーハのショックは払拭されるだろうと僕は思っていたが、実際にはそんなことはなかった。考えてみれば当然だ。自分自身の状況も、チームのメンバーも、戦う相手も、戦う場所も違うのだから。
戦いへの想いもドーハの時とは違った。試合の映像は何度でも再生できるが、あの時のあの想いは巻き戻せない。ましてや、ショックを吹っ切ることなどできないのだ。
僕はフランス大会で点も取れたし、次の日韓大会にも短い時間出場させてもらったが、その後もずっとドーハを引きずっているのかもしれない。
現役として踏ん張っていられるのも、ドーハの敗退が大きく響いている気がする。あの時にW杯に出場していたら、今もサッカーを続けていたかどうかわからない。
「サッカーバブル引きずり世代」の往生際
また、ドーハは、ちょうど日本のサッカーがアマチュアからプロになった直後だったこともあると思う。
海外からは、W杯で活躍したサッカー選手もJリーグに参戦するなど、日本のサッカーを取り巻く環境が劇的に変化していった時代だ。加えて、スペインリーグやセリエAなど海外リーグ、選手の情報もいろいろな映像とともに入ってきた。
今まで見たことのなかった海外選手のプレーに対して興味も湧く。なぜ、今までそうしたプレーを知らなかったのか。どうすれば海外選手のような優れたプレーができるのかもっと知りたい。
自分も同じように試合で表現したい。さまざまな思いが交錯した時代だった。
そうした「もっとうまくなりたい」という気持ちを、サッカーのレベルや情報の進化した時代とともに共有できたことが、今の現役への想いを決定づけたのかもしれない。
ある意味、サッカーバブルの時代を生きてきた"引きずり世代"といえるだろう。もう引きずることをやめて、現役から身をひくのも一つの決断だ。
でも、まだやれる自分がいるのではないか。挑戦する場所も与えてもらっていることに対して、その期待に少しでも応えたいという想い。ただ、身体は悲鳴をあげている。もう、いいだろう。いや、まだできる──結局は、堂々巡りだ。
自分の往生際の悪さには呆れるしかない。サッカーへの情熱がくすぶりながらも、やめなきゃいけない状況に追い込まれているとも感じる。でも好きなことをやりながら、燃やし続ける場所がある幸せに、ただ感謝しかない。