まずは、自分の「本当の欲求」を認める
虚栄心の強い人は、2歳や3歳の子供のように、甘えの欲求を直接的に満たそうとはしない。どうしても人がうらやましがるようなことをしたり、うらやましがるものを持ったりして、間接的に満たそうとする。
虚栄心の強い人は、まず自分が心の底で必要としていることに気づくことである。それは今ほしいと思っているものではない。虚栄心は麻薬であるから、今ほしいものを次々に手に入れたところで、なおるものではない。何より大切なのは、そんなものをほしいと感じなくなることである。
心の底にある甘えの欲求に気づき、自分の情緒はまだ2歳か3歳の幼児のようなものであると認めることである。自分は、自己中心的で、わがままなどうしようもない人間であると、自分で認めることである。
そして、自分を突き動かしているのは、この幼児のような欲求が仮面をかぶったものにすぎないと、気づくことである。
それに気がつき、それを認めれば、だんだんと自分の心の病いをなおすのに必要なものが分かってくる。また、目的とすべきことは、一人でも生きることが楽しめる人間になることである。
一人でいてもしょんぼりとしない。一人で草原にいても、自分のなかに何か力強いものを感じる。一人でコーヒーを飲んでいると、心が安らいできて気持がよい。そんな人間になることを目的とすることである。
もし、そのように一人でも生きることが楽しめるようになれれば、気むずかしい人間ではなくなるはずである。自分の周囲にいる人間が、自分のしたことにどう反応してもらいたいかという要求が強くなくなるからである。
小さい子供は、自分のやったことに周囲の人がオーバーに感心しないとふくれる。母親がいつも注目し、感心し、世話していてあげて、小さい子供は満足する。
気むずかしいというと、一般には大人のことを指す。しかし、小さい子供を同じ眼で見れば、これほど気むずかしい大人もいないと思うほど気むずかしい。
自分が坐ろうと思った席に誰かが坐れば、それだけでプーッとふくれてしまう。自分がやったことを兄がまねれば、すぐにプーッとふくれる。自分が飲もうと思ったものを誰かが飲めば、すぐにふくれる。自分が言おうと思ったことを誰かが先に言ってしまえば、それだけで不機嫌になり、手がつけられなくなる。
気むずかしい大人というのは、甘えの欲求が満たされていないだけの話である。その甘えの欲求を、小さい子供のようにはっきりと表現できないので、周囲の人は何か訳が分からなくなるのである。
甘えの欲求に支配されると、生きることが楽しめない
一人で何かをしていても楽しいということは、甘えの欲求がなくなったということである。はじめて大人になったということである。
一人でも生きることが楽しいと感じるようになって、はじめて他人とのつき合いも楽しくなるし、他人と協力して何かをすることができるようになる。
それまでは「他人が自分にこうしてほしい」ということばかりが先に立ってしまって、他人と協力して、あることをなしとげていくということができない。
またあることに責任を感じるということより、まず周囲の人が自分の世話をしてくれているかどうか、周囲の人が自分をどう思っているか、ということに気持がいってしまう。
それまでは他人が自分に何をしてくれるか、ということばかりが気になる。その人といて、その人といることを楽しむというより、その人が自分に何をしてくれるかということばかりになってしまう。
利己主義者というのが情緒的に未成熟だというのは、こういうことである。
小さい子供を見れば、みな利己主義者である。ただ彼らは、利己主義であることが自然である。しかし、大人になって利己主義であることは、自然な成長がどこかで止まってしまっているということなのである。
それは、人とのつき合いそのものを楽しめないから、どうしても損得が先にきてしまうのである。もし、人とつき合うことそのことが楽しければ、相手が自分に何をしてくれるか、ということからだけで人とつき合うことはないであろう。
利己主義者というのは、人とのつき合いが楽しくないということなのである。それは同時に、生きていることが楽しくないということでもある。生きていることが楽しければ、損得がそんなに前面に出てくることはない。
生きることが楽しくないからこそ、損得が先になってしまうのである。得をすることで、自分の満たされない甘えの欲求を間接的に満たそうとしているのであろう。
何をすることに意味を感じるかと言えば、甘えの欲求を間接的に満たすことに意味を感じているのである。
なぜ血眼になって利益を追求することに意味を感じ、緑の野原を歩くことに意味を感じないかと言えば、一方は心の底にある甘えの欲求を満たすことに役立ち、他方は役立たないからである。
なぜ地位を向上させることの努力に意味を感じ、小鳥のさえずりを聞くことに意味を感じないかと言えば、一方は甘えの欲求を間接的に満たすことに役立つからであり、他方はそれに役立たないからである。
甘えの欲求の不満に一生支配されつづけて、生きていることの素晴らしさを味わうことなしに生涯を終る人も多い。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。