「Being "not racist" is not enough. We have to be anti-racist.」(訳:"人種差別主義者ではない(not-racist)"ではないことだけでは、十分ではないのです。"反人種差別主義者(anti-racist)"であることが必要であり重要なことなのです。)
※esquire US 「I Never Would've Imagined Writing This Two Years Ago」より引用 ※日本語訳は日本版esquireより引用
昨年7月の全米オープン優勝後、大阪なおみ選手がesquireUSのインタビューでしたこの発言は、BLM運動の盛り上がりとともに大きな話題となった。
アメリカの新鋭の歴史学者、イブラム・X・ケンディは"アンチレイシスト"を強く訴える。アンチレイシストとは、人種だけでなく、民族、文化、階級、ジェンダー、セクシュアリティなどの違いを平等に扱う人のことだ。自身もレイシストであったと回想するイブラムは、どのようにしてアンチレイシストへと思考を深めていったのか。
※本稿は、イブラム・X・ケンディ (著),児島修(訳)『アンチレイシストであるためには』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
白人至上主義で生まれた"誤った正義感"
ぼくは、自分は劣等生だと思いこんでいた。そして"それは黒人だからだ"というメッセージを何度も何度も浴びせられてきた―――黒人からも、白人からも、メディアからも。
学ぶ意欲はどんどん削がれていった。"黒人は勉強が好きではない"というステレオタイプな考えも強まった。落胆することも多く、何事にも無関心になった。自己否定の悪循環にはまりこんでしまい、立ちどまって自分自身の状況や欠点に冷静に目を向けることもなかった。
黒人の自分に厳しい評価を下す社会、そのありように疑いの目を向けることもなかった。むしろ世の中に蔓延するレイシズムという思想を他人に植えつけようとすらしていた。
自分のスピーチの内容を思いおこすと、恥ずかしくて顔が熱くなる。
「もしいま、彼が生きていたら、ぼくたちミレニアル世代にどんなメッセージを伝えるだろう?71歳になった怒れるキング牧師を想像してみてください――」ステージにあがったぼくはそう口火を切り、キング牧師の有名な「わたしには夢がある」の演説にかぶれたスピーチを開始した。
まず、黒人が奴隷制から解放されたのは良いことだというところから話をはじめた。「しかし、それから135年が経過したというのに、まだ黒人は自由ではないのです」。そこから口調は雷のように激しくなった。ぼくの言葉は怒りに震えていた。それはキング牧師というよりも、マルコムXの演説に近かった。
「黒人の若者の心は、いまだに囚われている!」いまのぼくなら、「黒人の若者の心は、レイシズムに囚われている」と訴えるだろう。だがそのときはそうは言わなかった。
「彼らは思っている、社会から恐れられる存在になってもかまわないと!」
黒人の若者が人々から恐れられているのは、彼ら自身のせいだとでもいうかのように。
「彼らは思っている、物事をしっかり考えなくてもかまわないと!」
黒人の若者は勉強がきらいだという典型的なレイシズムの考え方をもちだし、彼らを非難した。よく耳にするこの主張は俗説にすぎず、正式な調査で裏づけられたものではないことなど、だれも気にかけていなかった。
聴衆の拍手に背中を押され、ぼくは証明されてもいないし、証明することもできない黒人の若者についての中傷をさらにまくしたてた。黒人の若者のすばらしさを訴えるべきこの場で、黒人の若者を糾弾しつづけた。
何様のつもりだったのだろう? 輝かしいステージに立ったことで、自分はそこらへんの、つまり劣った黒人の若者とは違う、数少ないきわだった存在になったのだと勘違いしていたのだろう。
拍手喝采を浴び、すっかり高揚してスピーチをしながら、ぼくは無自覚だった。ある人種集団を蔑むことは、その人種集団が劣った存在だと言うのと同じだということを。ある人種集団が劣っていると言うことは、レイシズムをあらわにするのと同じだということも。
ぼくは同胞である黒人のためにスピーチをしているつもりだった。だが実際には、黒人についてのレイシズムの考えを黒人に押しつけていただけだった。それでも、この主張を気に入ったらしき"黒い裁判官"たちは、拍手でぼくの背中を押した。もっと聞かせてくれ、もっと聞かせてくれ、と。ぼくはスピーチを続けた。
ぼくはまだ悪夢を見つづけている――このときのスピーチの内容を思い出すときはいつでも。
"否定"による無意識のレイシズム
このスピーチコンテストに出たのは高校を卒業した2000年で、それほど昔のことではない。にもかかわらず、当時の自分がこれほど強いレイシズムの思想で頭をいっぱいにしていたと思うと空恐ろしくなる。
ぼくはレイシズムがしみこんだ文化から、黒人と自分自身を撃つための"弾薬"を手渡され、そしてそれを使った。こんなふうに内面化されたレイシズムは、まさに黒人の黒人に対する犯罪、つまり「ブラック・オン・ブラック」と呼ばれるものだった。
スピーチコンテストがおこなわれたキング牧師記念日、ぼくは、当時の社会でもがき苦しむ黒人たちを見て、その原因は彼ら自身にあると考えていたわけだ。
まさにだまされやすい愚か者であり、カモだった。ぼくはレイシズムやあらゆる種類の偏見がしかける罠にまんまとはまっていた。問題の原因は人々をからめとるポリシー、すなわち政策や法律、規則などではなく、人々そのものにあると見なすようにあやつられていたのだ。
第45代アメリカ大統領の言葉も、このようなレイシズム的な言葉や考え方がどう機能するのかをはっきりと示している。ドナルド・トランプは大統領になるずっと前から、「怠惰は黒人の特徴だ」とうそぶいていた。
「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(アメリカ合衆国をふたたび偉大な国に)」というスローガンをかかげて大統領選に出馬したときも、ラティニクス〔ラテンアメリカ系の文化・民族的アイデンティティをもつアメリカ人を表す、ジェンダーニュートラルな新語〕を犯罪者やレイプ犯扱いし、メキシコからの不法移民をふせぐために数十億ドルをかけて国境に壁をつくるべきだと主張し、「イスラム教徒のアメリカへの完全な入国禁止」を約束した。
大統領に就任してからも、黒人の批判者を何度も「愚か者」と呼び、ハイチからの移民を「全員エイズの罹患者」と中傷し、2017年の夏には白人至上主義者を「すばらしく優秀な人々」と称賛した。
あきらかにレイシズム的な言動をだれかに指摘されると、トランプはいつもおなじみの言い回しで否定してきた。
「ノー、ノー、違う。わたしはレイシストではない。あなたがこれまでインタビューしてきたなかで、わたしほどレイシストからほど遠い人間もいない」
トランプは、「あなたがこれまでに知り合った人のなかで」、「あなたがこれまで出会った人のなかで」といったお決まりの誇張表現で、自分以上にレイシズムと無縁の人間はいない、とのうのうと言い張ってきた。
トランプのこうした言動は極端な例かもしれないが、否定の方法は典型的だ。人は、内なるレイシズム的な思想やポリシーがあらわになると、反射的にそれを否定しようとする。
この"否定"こそが、レイシズムの鼓動だ。それはイデオロギー、人種、国が違っていても関係ない。"否定"は、ぼくたちがみな内側にもっている。トランプのレイシズムを強く批判する人も、自分のなかに同じ思想があることを強く否定する。みずからの言動がレイシスト的だと指摘されると、とっさにそれを否定しようとする。
「"レイシスト"とは、だれかの発言や行動を表す言葉ではない。それはその人を軽蔑するための言葉であり、"あなたのことが大きらいだ"と言うのと同義である」という考えに同意する人も多いはずだ。
これはトランプと同じく"わたしはレイシストではない"と強引に言い張る白人至上主義、リチャード・スペンサーの実際の発言だ。トランプやスペンサーのような白人至上主義を毛ぎらいしていながら、"自分はレイシストではない"と主張する人は、彼らと同じになってしまう。