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生き方

世界的美術家・篠田桃紅が思い起こす「明け方に飲んだコーヒーの味」

篠田桃紅(美術家)

2021年11月09日 公開

2021年3月1日に107歳で逝去した世界的美術家、篠田桃紅さん。5歳の時に父の手ほどきで初めて墨と筆に触れてから、ほぼ独学で書を極め、やがて美術の世界へ。随筆の分野でも現代の清少納言といわれた瑞々しい感性にあふれています。本稿では篠田さんの随筆集『朱泥抄』から、人との間で生まれた記憶について綴った一説を紹介する。

※本稿は、篠田桃紅著『朱泥抄』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。(本書は1979年にPHP研究所から刊行された同名の書籍を再編集、新装復刊したものです)

 

外国生活にて日本人訪問者の楽しみ

外国生活の間に、日本の旅行者が立ち寄られることはままある。親しい人なら、私の手料理でも食べてもらいながら、ごく最近の、日本の話など聞くのは楽しいことであった。

従弟の篠田正浩(映画監督)とシナリオライターの白坂依志夫さんが、ソ連、ヨーロッパ各国を回って、ニューヨークの私のホテルに着いた夜は、もう秋の終わりで寒いときだった。

私は御飯を炊き、お豆腐のおみおつけ、てんぷらなどをつくって、居合わせた甥(日本商社員)や親戚筋の大学生(留学中)もよんで急に大勢になって食事をした。私のお釜では御飯は二度炊かなければ間に合わないし、器も足りなくて、コーヒー茶碗にお豆腐が浮いているような食事だった。

2カ月間、日本風のゴハンとオカズに接しなかった従弟たちには、それでももう感激で、滞在10日間の朝夕、よく私のところへきて食べた。私が日本へ帰った時、レストランでばったり会った寺山修司さんが「白坂や篠田(正浩)は病気をして、桃紅さんはオジヤをつくってやったんですってね」と言われたのには驚いた。

二人とも相当強行なスケジュールでバテてはいたが、そして発熱もしたりしたが、オカユやオジヤを食べさせるほどではなかった。日本では話に尾ひれがついて、寺山さんの耳に入る頃には、二人がくたびれていたことと、私が食事をつくってあげたことの二つが絡み合って、オジヤが登場することになったらしい。

話はおもしろくするためには、たいていの人はすこし大げさにするし、ことに、相手は想像力豊かなる映画人や戯作者であるから、話のふくらませ方や、カット、脚色は自由自在、お仲間がニューヨークでオジヤを食べるシーンをつくり上げてたのしんだらしい。

その頃のある夜中の2時頃二人がやって来て、「今、ノーマン・メイラーとのインタビューを終えた。熱いうちに話したい」と言うのだ。全くまだ熱いエキサイティングな話し方で、会見の一部始終や、メイラーという人の異常で魅力的な人物と言葉が、生き生きとこちらに伝わってきた。

内容はとてもここには書けない。バスルームに日本の江戸期のあやしげな絵がかかっていたとか言う話ぐらいは、私も彼等の眼を見て聞いていたが......新聞社の人や、メイラー夫人も交えて、9時から午前1時頃までにウイスキーを何本あけたとか言ったが、このへんも日本では、半ダースだったり、10本になったり、メイラー氏の「話」もだんだん派手になっていったらしい。

(しかし、これは速記があるから大丈夫である)二人が引き揚げたのは5時か6時か、これもはっきりしないが、明け方、コーヒーをわかして三人で飲んだ。大げさではなく、あれくらい朝のコーヒーをおいしいと思ったことはない。

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女学校時代の、何のこともないような記憶

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