(イラスト:ファガユル)
失敗したとき、何となく暗い気分になる。誰かに相談しようと思っても、周囲の人間も生きていくのが精一杯な状況ではそれも叶わない。人気エッセイストであるチョ・ユミ氏は、限界を感じた時こそ歩き続けることが重要であると語る。本稿では、SNSで絶大な人気を誇る同氏のエッセイ「ありのままでいい~自分以外の誰もが幸せに見える日に」より、不安や焦燥感で眠れない夜をどう克服したのか記した一説を紹介する。
※本稿はチョ・ユミ 著、藤田麗子 訳『ありのままでいい~自分以外の誰もが幸せに見える日に』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
「分かち合い」が難しい社会
昔はつらいことがあれば誰かに相談していた。でも、誰もが大変な毎日を送っていると知ってからは、それができなくなった。自分の荷物を背負うだけで精いっぱいの人々に、私の荷物まで押しつけるわけにはいかない。
喜びを分かち合えば倍になり、悲しみを分かち合えば半分になるというのは昔の話だ。競争がはびこる社会で喜びを分かち合えば嫉妬の対象となり、ただでさえ疲れる社会で悲しみを分かち合えば憂鬱が伝染する。
「自分の役割を果たそう」簡単な言葉だと思っていたが、実はこの世でいちばん難しいことだった。自分の役割を果たしながら生きていくということ。
おとなになれば、すごいことができると思っていた。"井戸"の中にいた頃は、危機といっても雨による増水しかなくて、沈まないようにあがいているだけでよかった。大変だったけれどつらくはない。なかなかうまくやれていると思っていたし、井戸の外に出れば何だってできそうな気がした。
でも、いざ世間に出てみると、生きていくだけで精いっぱいだった。もう私を守ってくれる井戸の壁はない。稼ぎがなければ狭い部屋すら借りられない世の中で、自分より強い者に食われないように気を引きしめていなければならなかった。
わずかな狂いが生じるだけで、餌食になってしまうから。自分の役割を果たすことの大変さは、体験してみなければわからない。だから私は、人に寄りかかれなくなった。私が大変なのと同じように、みんなも大変だとわかるから。
みんなも一日中、神経をとがらせてがんばっているのがわかるから、笑顔を見せる。お荷物になりたくなくて、当たり障りのない話ばかりする。他愛もないおしゃべりをする。本当に話したいことを、胸の奥にしまい込んだまま。
不安で眠れない夜は「心配ノート」
私はとても心配性だ。起こりもしないことを、なぜここまで心配してしまうんだろう。ほどほどにしておけばいいのに過剰に心配しすぎて、眠れなくなってしまう。心配性の人は知っている。心配事が多いということが、どれほど疲れることなのかを。
私はこれを克服する方法を探し始めた。やがて見つけたのは、ノートとペンを使うという方法。頭の中に入っている心配事をペンで一つひとつ書き出していく。日記のように書いたり、絵を描いたりしてもいい。心配事がなくなるまでノートに書き続ける。
5ページを文章でぎっしり埋め尽くした日もあれば、絵を1ページだけ描いた日もあった。心配事を一つひとつ書いていると腕が痛くなり、それだけでも余計な心配をするのはもうやめようという気持ちになった。心配することが面倒になってきたのだ。
横になってただ悩んでいただけの頃とは違い、心配事が増えるたびに手を動かしてノートに書き出す作業をするというのはラクじゃなかった。山のような心配事は少しずつ減っていった。心配ノートは、時が経ってから自分を振り返るきっかけにもなる。
「こんな悩みを抱えてた時期があったなぁ」
「この問題はうまく解決できた」
「これはまだ解決してない」
「次はこうしよう」
同じ問題に再び直面したとき、より柔軟に対処できるヒントをくれたり、成長に気づかせてくれたりもする。これこそが、心配の中に咲いた一輪の花。心を濡らした多くの涙が、この花を咲かせてくれたのだ。
人生には、心配せずにはいられない局面もある。でも、頭を抱えて悩まなくても大丈夫。心配したからといって解決するわけじゃないし、心配は心配に過ぎない。自分の心と体をいたわることのほうが重要だ。
心配しても人生がよりよいものになるわけではないのだから、現状をありのまま受け止めるだけでいい。これから何が起こり、何が起こらないかは、誰にもわからない。数えきれないほど心配しても、実際の状況に直面したときは一から取り組むことになる。
そう、考えてみれば、すべて初めてのこと。今年を体験するのも今日を体験するのも今、この瞬間を体験するのも何もかもが初めて。
初めてのことが怖くて、果てしなく感じられるのは当たり前だ。だから心配しなくてもいい。あなたは、当たり前の人生を生きているだけだから。