私たちの生活には欠かせないコーヒーだが、はじめはイスラーム圏の飲み物だった。やがて1600年代からヨーロッパに広がり、ロンドンのコーヒーハウスでは活発なサロン文化が花開く。そこから生まれた保険、銀行、新聞、証券取引所などの様々な形態がロンドンを世界の金融の中心に押し上げた――。
※本稿は、大宮理著『ケミストリー世界史 その時、化学が時代を変えた!』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
古くは薬として使われていた
私たちはコーヒーに囲まれた生活をしています。朝起きて、まずは眠気覚ましに1杯飲み、昼はスターバックスなどで談話し、コーヒー通ならコーヒー豆を買いにいくでしょう。
コーヒーの起源はエチオピア高原だとされています。コーヒーの発見については有名な伝説があります。羊飼いのカルディという少年が、赤い木の実を食べたヒツジが興奮して騒がしくなったのを見て、その赤い実を食べたら爽快になり、それを聞いた修道僧が食べると眠気覚ましの効果があり、修行に専念できるようになったといわれるものです。
900年ごろのイスラームの医師、錬金術師のアル・ラーズィの文献には、すでにコーヒーが薬として使われていたことがわかる記述があります。イスラーム圏では、コーヒー豆を煎ってから砕いて、煮出して飲む習慣が広がっていました。このころは、いまでいうエナジードリンクのような扱いでした。
イスラームから広まったコーヒーがサロン文化を生み出す
1554年に、トルコのイスタンブルに2つのコーヒーハウスが開業しました。調度品や装飾品を豪勢にして、社交場、サロンになるような店づくりですが、これがのちにヨーロッパに伝わり、次々とコーヒーサロン文化を生み出していきます。
コーヒーが徐々にヨーロッパに伝わったとき、最初は、「イスラーム教徒の飲み物、悪魔の飲み物だ」などと言われていました。1605年のある日、ついに教皇クレメンス8世に、コーヒーを禁止するようにと進言する聖職者たちが現れました。
しかし、教皇はコーヒーを試し飲みして、えらく気に入ってしまい、「異教徒だけに飲ませていてはもったいない。洗礼を施して、キリスト教徒の飲み物にしよう」と叫び、コーヒーがヨーロッパでも自由に飲めるようになりました。
1600年代中盤から、ヴェネツィア、ロンドン、パリ、ウィーンと、コーヒーショップが開店し、ロンドン周辺では10年間で2000軒ものコーヒーハウスが開店するほどでした。ロンドンのコーヒーハウスでは、ニュートンの不俱戴天のライバルであるロバート・フックやエドモンド・ハレー(ハレー彗星を発見した科学者)たちが議論していました。
バッハは1732年に、「コーヒーカンタータ」という曲を作曲しています。ベートーヴェンは、1杯のコーヒーを淹れるのに豆は60粒と決めていたそうです。
また、理性と自由を掲げて封建制、専制政治と闘ったフランスの啓蒙思想家ヴォルテールは、1日に72杯ものコーヒーを飲んだ記録があるそうです。アメリカ独立戦争やフランス革命を指導した人びとはみな、コーヒーハウスに集まって議論をしていました。
コーヒーハウスで生まれた資本主義
海運業の保険で有名なイギリスのロイズも、コーヒーショップから始まりました。1680年代末にエドワード・ロイドが開いたコーヒーハウス、ロイズには、投資家や船長、船主が集まり、どの船がどのくらいの装備で、航海は安全かなどの船ごとの情報を伝え、それがやがて船舶の保険につながっていったのです。
これと同じような動きは、ロンドンの銀行、新聞、雑誌、証券取引所など、さまざまな形態のものを生み出していきました。その結果、それまで世界の金融の中心だったオランダのアムステルダムに代わって、ロンドンが世界の金融の中心となったのです。
資本主義と金融のバイブルといわれるアダム・スミスの『国富論』も、スコットランド人が集まるロンドンのコーヒーハウスで書かれました。科学と金融がロンドンのコーヒーハウスで開花したのです。
コーヒーは需要の拡大とともに国際貿易商品となり、奴隷労働をベースにして発展し、帝国主義のもと、欧米は植民地にコーヒー豆のプランテーション、大農園を拡大していきました。伝統的な自給用の作物の耕作はなくなり、理想的なコーヒー栽培地の斜面に住む人びとは追い立てられて、農園の労働者にされました。
現在でも、巨大な多国籍企業が支配するコーヒー豆の生産では、児童労働などの収奪が問題になっています。それに反旗をひるがえしたフェアトレードといったコーヒーも見かけるようになりました。