日本できちんとした句読点が使われるようになったのは、明治時代に文部省が日本語表記の基準が作られてからである。しかし実は、江戸時代の初期にはほぼ完成形の「てんまる」が現れていた。その時代、日本語表記の周辺にどんな劇的変化が起きていたのか?
※本稿は、山口謠司[やまぐち・ようじ]著『てんまる 日本語に革命をもたらした句読点』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
「ヽ」は奈良時代から
「てんまる」がないと、文章の理解に無理が生まれ、誤解が生じて変な意味になってしまいます。「うみにいるかのたいぐん」(海にイルカの大群:海にいる、蚊の大群)「ぱんつくった」(パン、作った:パンツ、喰った)などの文章が出てくることになるのです。
口頭のコミュニケーションでは間違いが起こることがほとんどない、とすれば、当然文章の表記の問題になってきます。
そもそも「てんまる」は、我が国では、漢文を訓読する際の記号として生まれてきました。
現在、「ヽ」の記号が使われた最も古い資料として残っているものは、奈良時代、天平17(745)年以前に写された『文選李善(りぜん)注』だといわれています。
また、平安時代に写された天長5(828)年の『成実(じょうじつ)論』には、文末には右下に「ヽ」、区末には左下に「ヽ」がつけられています。
この『成実論』は、〈カタカナ〉が使われた最古の資料としても知られていますが、828年とは、まだ空海(774〜835年)が生きている時代なのです。長安に留学して最前線の中国の文化を将来した空海でしたが、その空海の晩年頃から、我が国は、次第に日本独自の文化を形成し始めるようになっていきます。
そして、それから約60年後の900年頃には〈ひらがな〉が生まれ、漢文ではなく仮名文が作られるようになるのです。
800年代前半、平安時代前期の『成実論』に、現在の「てんまる」に匹敵する「ヽ」が生まれたということは、つまり日本人が、漢文を和語で解釈していくことが必要となったと同時に「てんまる」が生まれたとも言えるのではないでしょうか。
鎌倉時代から室町時代は「・」
鎌倉時代になると、法然や親鸞、日蓮によっていわゆる「念仏」を唱える仏教が現われます。
庶民を対象にしたこれらの信仰では、できるだけ分かりやすく、間違いなくお経を読むということが普及していきます。
例えば、京都・興正寺に伝わる『浄土三経往生文類(広本)』は、漢字カタカナ交じりの文章で綴られていますが、文の区切れには、朱墨で「・」が施されています。
大経(ダイキョウ)往生ト・イフハ・如来撰択(せんちゃく)ノ本願・不可思議ノ願海(カイ)・己ヲ・他力(タリキ)・マフスナリ・
振り仮名も丁寧に振られていて、「・」もついているので、とても読みやすい文章になっています。
はたして、ここから1世紀を経た南北朝時代ではどうでしょう。
もちろん、資料にもよりますが、例えば京都・佛光寺所蔵『一流相承系図』は、「てんまる」を使わず、空白を作ることによって「句読」を示します。
ソノ期(コ)ニイタリ 利益アリヌヘカランヲハ 衆議(シュキ)トシテ ソノユルサレアルベキウヘハ サラニ 自由(シユ)ノクハタテヲトヽムヘシ
空白を作って「てんまる」の代わりにするというのは、ヨーロッパ諸語の書き方に似ている、ということもいえるでしょう。
もしこの時、この方法を採用していたとしたら、あるいは「てんまる」は鎌倉時代までで消えてしまったのかもしれません。
それでは室町時代の「てんまる」はどのようになっていたのでしょうか。
現在、内閣文庫に所蔵される室町時代末期の『花上集鈔』を見ると、次のような「てんまる」がつけられています。
此二三年田舎ノ方ヘ・下テ・イラレタゾ・禁城ハ内裡都ナトノコトゾ・
この本は五山の僧侶、義堂周信など20名の七言絶句をそれぞれ10篇ずつ集めた詩集『花上集』に注釈を付した本です。
『花上集』は、建仁寺の僧、文挙契選(ぶんきょけいせん)が長享3(1489)年に編集したもので、おそらくそれからしばらくして作られたのが『花上集鈔』であろうと考えられています。
ただ、「てんまる」のつけ方からすれば、鎌倉時代からほとんど変わっていないことは、明らかではないでしょうか。