尽くさなくても嫌われることはない
「……人格的伴侶としての夫との関係や母としての子供との関係を、《鬱病の女性はもっぱら果すべきつとめとして、普遍的規範の実現として遂行》する……」(前掲書、154頁)
なぜそうなるのであろうか。それは人格的触れ合いが怖いからではなかろうか。ありのままの自分では相手に嫌われる、相手に受け入れられないと感じているからである。相手に尽くせば受け入れてもらえると思っているのである。
しかし実際はその逆であることが多い。尽くさなくても嫌われない。その人は勝手にありのままの自分では嫌われると思っている。そこで自分の内面を隠す。しかしその人が嫌われると思っている自分の内面が実は相手の求めているものであるということもある。
もっと分かりやすく言えば、こんな事を言ったら嫌われると思っているその言葉を相手が聞いて喜ぶということだってある。
自分の内面を隠すことで、人格的関係が、果たすべき務めになってしまうのである。心を開いて触れ合うものが、普遍的規範の実現となってしまう。
メランコリー親和型の人の対人関係の特徴は触れ合いの欠如である。
好かれようとするが、相手を好きにはならない。好かれようとして相手に尽くすが、相手を好きにはならない。
相手を好きになるということが自分自身のために存在するということであるが、メランコリー親和型の人はおそらく相手を恐れても相手を好きにはならないのであろう。
彼らは相手に好かれることで自分の価値を感じとることができる。そうなれば価値の供給源は他者であり、それゆえに他者は自分にとって脅威となる。
相手に好かれなかったら、自分の価値はなくなってしまう。そうなると好かれようと必死になる。好かれようとして相手に尽くす。
しかし相手が尽くされたいと願っているかどうかは別の問題である。相手は尽くされなくてもその人に満足しているということがある。
自己執着的対人配慮という言葉がある。決して相手のためを考えて相手に配慮するわけではない。相手に好かれるために配慮しているだけである。その点で相手を愛しているわけではない。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。