2000年の大晦日、子どもを含む一家4人の命がうばわれた「世田谷事件」。入江杏さんはこの事件で、愛する妹一家を失いました。事件現場となった家は「あそこで事件が起きた」と後ろ指を指される家となってしまったのです。
「見るのも辛い、早く壊してほしい」という母親を説得し、警察からの依頼で取り壊し延長の措置をとってきました。しかし、20年を経て、警察から問われたのは、「取り壊しをしますか? しませんか?」という事実上の取り壊しのお願いだったのです。
※本稿は、入江杏著『わたしからはじまる 悲しみを物語るということ』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。
「世田谷事件」事件現場の家と被害遺族の意思
「取り壊しをしますか? しませんか?」
「取り壊した場合、遺品で手元に置きたいものは何ですか?」
「どれを選びますか?」
何の前触れもない警察の突然の訪問に、私はとまどいを隠せませんでした。警察からの依頼が発端の現場保全。見るのも嫌だし、行くのも辛い。未解決のまま、現場に足を踏み入れることもできないまま、20年近くが経過していました。
塗装が剥がれ、傷みが目につくようになった家。瓦が飛んだり、壁が崩れたりすれば、周囲に危険が及ぶこともあるかもしれない。隣り合わせの公園で遊ぶ子どもたちがケガをするかもしれない。
警察は懸念を伝えてきました。未解決事件の現場保全のために、24時間体制で見張りを立てる人件費や修理費などの捻出に、警察が限界を感じていたのでしょうか。
警察から建物内の証拠や周辺の状況はすべて記録したと報告がありました。建物の外観や内部の様子を3D映像化し、証拠保全は完了したから、取り壊しても事件解決には差し支えないとの説明を受けました。
「現場を見るのが辛い、早く壊してほしい」と言い続けていた母を説得し、捜査協力のために、現場を保全してきました。事件解決を願い、毎年、取り壊し延長願いを行政に提出してきました。
警察からの依頼が発端の現場保全であったにもかかわらず、一転、取り壊しのための責任者として、私に任せたいと警察は繰り返すばかりでした。
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【「まつおかさんの家」辻征夫】
ランドセルしょった 六歳のぼく
学校へ行くとき いつもまつおかさんちの前で 泣きたくなった
うちから 四軒さきの 小さな小さな家だったが
いつも そこから ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで 学校へは行ったのだが
ランドセルしょった 六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって 学校へ行くのを
窓から見ていた ぼくは中学生だった
弟は うつむいてのろのろ 歩いていたが
いきなり 大声で 泣き出した
まつおかさんちの前だった
ときどき 未知の場所へ 行こうとするとき
いまでも ぼくに まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって かまわないのだが
叫んだって いっこうに かまわないのだがと
かんがえながら 黙って とおりすぎる
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未知への不安をうたった「まつおかさんの家」。現場の家は、この詩にあるように「こころぼそさと かなしみが いちどきにあふれてくる」まつおかさんの家になってしまいました。
みんなから「あそこで事件が起きた」と後ろ指をさされている家。なぜあんなところに家を建てたの? 東京の住宅街なのに、周りには一軒も家がない。まるで野中の一軒家じゃない?
事件が発覚した時、キャスターには「さほど金持ちでもなさそうな宮澤さんの家に、犯人はなぜ侵入?」などとも言われました。
この家は、「いきなり大声で 泣き出した」くなる、「ひきかえした」くなる、そんな場所になってしまいました。私の心の中に刺さった棘。かつて希望をはらんだその家は、棘の家となってしまいました。私たち姉妹の夢は、子どもたちのための居場所、学びのスペースづくりでした。
すでに公園用地として収用が始まり、終の住処というつもりではなかったものの、夢の実現のための一歩を、あの地で踏み出そうと妹と語り合っていました。
持ち前の包容力と愛情深さで、妹は、あの場を地域に根付かせていきました。たくさんの子どもたちにとっての学びの場、居場所となっていったのです。
一方、私たち家族は夫の仕事場のあるイギリスに拠点を移していました。気になったのは、帰国するたびに、収用のための立ち退きが進み、周辺はあっという間に人通りが少なくなってしまったことです。