「多神教徒的」な日本人と世界との共存
日本人は多神教徒であり続けると思う。その理由を、1つの仮説が説明してくれているように思う。それが、角田忠信の「日本語人の脳」という仮説だ(『日本語人の脳』言叢社)。
日本人は虫の声や動物の鳴き声、風や水の流れる音などを、世界の人とは違って「言語を司る左脳」で聞き取っているのだが、その原因を探っていくと、幼少時から日本語を語り、母国語にしたからではないか、と言うのである。
これは、実験によっても検証されていて、日本人の伝統的な心情の特徴は、(1)情緒性、(2)自然性、(3)非論理性に求められるとする。
この心情こそ、日本人の多神教的な発想に結びついているのではあるまいか。大量の渡来人も、2世3世は日本語で育ち、日本人的になっていったわけだ。だからこそ、日本人は白黒はっきりとした一神教的な思考に、馴染めないのだろう。
また、日本語の起源はまだよくわかっていないこと、世界から孤立した言語なのだが、すでに縄文時代には原形が出来上がっていたと考えられていて、日本人の3つ子の魂が、日本語と国土の大部分を占める大森林によって守られてきたのではないかと思いいたるのである。
ここに、なぜ日本と中国は、相容れないのか、1つの答えは見出せたのではなかろうか。中国は文明の国、日本は反文明の国なのである。
また、朝鮮半島諸国は、中国や騎馬民族の脅威に晒され続け、事大主義的発想を抱きがちだった上に、日本を中国文明の「下流に住む弟」とみなす。どんなに現状が変わろうとも、これが根底にあり続けるのが朝鮮半島人だ。そのことに気づかないまま、お互いに理解できないでいる。
当然、縄文人は稲作を拒みながら、背に腹はかえられないと、徐々に稲作を受け入れていった。弥生時代後期に戦乱が起き、中国の歴史書に「倭国大乱」と記録されたが、3世紀初頭に纏向に人びとが集まり、奇跡的な形で混乱を収拾してみせたのだ。中国のように、敵を圧倒し、殲滅し、共存を拒むという文化は根付かなかった。
中国は、一神教的で中国的な「正義の皇帝」に支配され、日本は、「なるべく強くならないように工夫した王(天皇)」を推戴したのだ。この差は大きい。
多神教世界の住人である日本人にとって、中国はじつに厄介な存在なのだが、逃げるわけにはいかない。だから、お互いの差を知った上で、どうすれば共存できるのか、模索する必要があるだろう。相容れないからこそ、友になる道を開かなければならない。