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三浦雄一郎氏が滑って体感「富士山が世界遺産に相応しい理由」

三浦雄一郎(プロスキーヤー)

2012年06月29日 公開 2022年05月23日 更新

三浦雄一郎氏が滑って体感「富士山が世界遺産に相応しい理由」

来年には、文化遺産として「富士山」の世界遺産の認定が有力視されています。日本の象徴でもある富士山への熱い想いを、三浦雄一郎さんに伺いました。
取材・文:横堀夏代/写真:野口彰一

※本稿は『ほんとうの時代 Life+』2012年7⽉号より抜粋・編集したものです。

 

富士山の宇宙的スケールを滑りながら体感した

世界中の山でスキーや登山をしてきましたが、富士山には格別の思い入れがあります。ですから、2007年に発足した「富士山大好き!百人の会」に参加させていただき、自然環境保護を訴えるためのシンポジウムなどにも積極的に出席しています。富士山の世界文化遺産登録が実現すれば、これほどうれしいことはありません。

とはいっても、富士山は僕にとって、ある時期までは遠い存在でした。青森県で生まれ、子ども時代から東北や北海道の山ではさんざんスキーをしてきました。けれど富士山は、なぜかきっかけがなく、滑るどころか登ったこともなかったんですよ。

富士山を強く意識するようになったのは、1962年のこと。アメリカで開催された、世界プロスキー選手権に出場したときからです。メディアのインタビューでは、必ずといっていいほど「フジヤマでスキーをしているのか」と、質問を受けました。そのたびに宿題を忘れた中学生のような気持ちになり、「日本に帰ったら必ず登ろう」と、心に決めたんです。

帰国してから、スキーをかついで念願の富士山に登りました。山頂から噴火口へまっしぐらに滑り降りたときは、地球を丸ごと滑っているような感覚がありました。

「日本にこんなすごい、宇宙的スケールの山があったのか」と、ものすごく感動しましたね。その後も、山頂から直滑降で滑ってパラシュートブレーキをかけるアクションにチャレンジしたり、小学校入学前の娘や息子たちを連れて登ったりして、富士山には幾度となく接しています。

 

世界へ飛び立つ起点にあるのはいつも富士山だった

世界へのチャレンジを決意するたび、僕は富士山に登っています。たとえば、70歳でエベレスト登頂を決めたときもそうです。年齢が高いというだけでなく、メタボリックシンドロームや狭心症を抱えていたこともあり、医師からは無理だと言われました。

それでも、足におもりをつけてトレーニングを続けたり、身近な山から始めて徐々に体を慣らしたりして、数年がかりで体力をつけました。そして、エベレスト登頂に成功したんです。

そんなプロセスのなか、富士山にも5回ほど登りました。3776メートルの山頂は、何回登ってもすがすがしい達成感がありますね。冬には、竜巻のような突風に巻き込まれて、何メートルも飛ばされたことが何度もあります。それでも登るのを止める気にはなりません。

来年の5月には、80歳でのエベレスト登頂を目指しているので、その体慣らしに富士山へも登ろうと思っています。夏のシーズンが一段落した、9月あたりでしょうか。

 

美しさを取り戻した今は世界に誇れる存在に

1970年代後半ごろからだったと思いますが、雪のないシーズンに富士山の山道を歩くと、ゴミがとても気になるようになりました。それは、マナーの悪い登山者たちが、空き缶やペットボトル、食べ物の残りなどを無雑作に捨てていくからです。

世界中から登山家や探検家が集まるサミットが東京で開催されたとき、参加メンバーから「フジヤマに登りたい」という希望が出たけれど、僕は反対しました。日本のシンボルである山に、ゴミがたくさん捨ててあるのを見られたくなかったんです。

そのころから富士山へ登るときは、グループ一同で必ずゴミ袋を持参し、リュックがいっぱいになるまで拾って帰るようになりました。その習慣は、今も続けています。

この10年で、富士山はとてもきれいになりました。環境保全に対する意識が高まってきたからでしょうね。ゴミを拾って帰ろうと思っても、ほとんど落ちていません。ゴミを探すのにひと苦労です(笑)。

バイオトイレも導入されています。富士山が美しさを取り戻した今なら、世界遺産として登録されても、十分に世界に誇れることでしょう。

自然遺産ではなく、文化遺産の候補となっていることも意義深いですね。富士山は、古来より山岳信仰の中心的存在だったうえ、和歌などの文学作品や絵画でも数限りなく取り上げられていますから。富士山は、私たちが子孫に残せる大切な文化であり、財産だと思っています。

 

三浦雄一郎 (みうら・ゆういちろう)
プロスキーヤー

1932年、青森県生まれ。64年、イタリアで開催されたキロメーターランセで当時の世界新記録樹立。70年、エベレストのサウスコル8,000メートル地点から滑降し、ギネスブックに掲載。92年よりクラーク記念国際高等学校校長に就任。2003年にはエベレストに70歳で登頂し、ギネスブックに掲載。08年、75歳でエベレストに再登頂。来年には、80歳で3度目のエベレスト登頂を目指す。

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