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「先生の歌でホームルームが長引いてなかったら...」 東日本大震災当日、ある中学校での記憶

PHPオンライン編集部

2026年03月06日 公開

「先生の歌でホームルームが長引いてなかったら...」 東日本大震災当日、ある中学校での記憶


写真:北上総合支所(撮影:清水哲朗/2011年4月23日)

2011年3月11日。東日本大震災から、まもなく15年が経とうとしています。町の復興は進んできましたが、あの日を境に暮らしが一変した人、戻らない日常や大切なものを失った人――それぞれが今も胸の内に抱える思いがあります。

今回は、震災当時中学3年生だった宮城県石巻市出身・在住の横山恵美さんに、あの日の忘れられない体験を語っていただきました。

※前編・中編・後編の前編です

 

校門を出ようとすると大きな揺れが

『北上川河口物語』より
『北上川河口物語』より

横山恵美さんは宮城県石巻市出身。東日本大震災が発生した当時は中学3年生で、翌日に卒業式を控えていました。

「地震が起こる少し前、卒業前最後のホームルームをしていました。主任の先生が盛り上がった勢いで歌をプレゼントしてくれたんです。そのおかげで帰る時間が予定より30分ほど遅くなりました。下校しようと校門をまたごうとした、その瞬間に大きな揺れが始まったんです。

幸い、私は校庭付近の何もない場所にいたので、落下物の心配はありませんでした。しばらくして、翌日の卒業式の準備をしていた1、2年生が校舎から走って逃げてきました。建物の中は物音がすさまじくて、中には号泣している子もいました」

通っていた中学校は高台にあったため、揺れている間は街の様子までは分からなかったといいます。

「中学校は海からはやや離れた場所にあり、海岸沿いからスクールバスで通っている子もいました。地震が起きたとき、バスはすでに発車した後だったのですが、乗っていた同級生たちが運転手さんに『怖いから学校に戻りたい』と伝えたそうなんです。バスは引き返し、利用していた生徒も含めて、最終的に全校生徒が校庭に集合することになりました」

当日の夜は、生徒と先生に加え、周辺から避難してきた人たちも含め、多くの人が学校に宿泊することになりました。

「その日の朝は雪が降っていて、いつもなら自転車で通学するところを、母に車で送ってもらっていました。帰りも迎えに来てくれていたので、偶然にも母と学校で落ち合うことができたんです。

同じように、お孫さんを迎えに来ていたおじいさんが『家に帰らなきゃ』と言って、学校の敷地から出ようとする一幕がありました。先生たちは『ここが安全だから』と引き止め、おじいさんも渋々その場に残ることになりました。もしあのとき、学校を出ることを許していたら、そのおじいさんとお孫さんがどうなっていたのか、正直分かりません」

 

被害状況が見えないなかで、友人と交わした会話

体育館で一夜を明かすことになりましたが、情報は乏しく、さまざまな憶測が飛び交っていたといいます。

「学校の坂の途中まで水が来ているとか、海沿いにある病院が孤立しているらしいとか、事実なのか噂なのか分からない話が次々と入ってきました。

それと印象に残っているのが、学校から見上げた夜空です。いかにも東北の夜空って感じで、雲ひとつなく、星も月も本当にきれいに見えていました」

電気も水道も止まり、凍えるような寒さのなかでの一夜でした。体育館には高齢者も多く避難していたため、生徒たちは体操用のマットを敷くなど、落ち着く間もなく動き回っていたと横山さんは振り返ります。

夜中になり、消防隊が避難している人たちに向けておにぎりを配りにきました。実はそれは、石巻の山あいで「追分温泉」という旅館を営んでいる横山さんの家で握られたもの。みんなで分け合いながら食べたといいます。全く先の見えない状況のなかでも、地域で動ける人が動く。そんな光景がうかがえます。

「津波の情報は入ってきていましたが、実際に現場がどうなっているのかは分かりませんでした。だから"津波"といっても、家が少し浸水するくらいだろうと思っていて、友人たちの間に『(高校入学に向けて)せっかく買ってもらった携帯が水に濡れてたらどうしよう』といった会話もありました。そのときは、被害がどれほどの規模なのか、本当に知らなかったんです」

 

震災の翌日、現実味のない光景

横山さんが通っていた中学校付近の現在
写真:横山さんが通っていた高台の中学校の下。住宅街は津波で流され、現在は運動公園として使われている

翌朝、津波が収まり水が引いたことで、ひとまず内陸側に住んでいる人たちは帰宅を許されました。

「早く帰らなきゃ、という一心で、どこか景色に違和感を覚えながらも、学校からの坂道を下っていきました。そして、ふと見渡したとき、学校の下に広がっていたはずの住宅街がなくなっていることに気づいたんです。道路だったはずの場所には、よじ登らなければ越えられないほどの段差ができていて、一緒に帰った人と協力しながら渡りました。

その日も空はすごく晴れていて、まるで映画の中にいるようで、現実味がありませんでした」

横山さんの自宅までの道は、引き波の影響で瓦礫こそ多くはなかったものの、後になって遺体が見つかったという話も耳にしたといいます。

ようやく母娘二人で帰宅すると、父と同居している祖母、そして孫の卒業式に出席するため旅館に宿泊していた、離れた場所に暮らす祖父母が待っていました。

お母さんの姿を見た瞬間、お父さんは目を丸くしたといいます。というのも、お母さんは当日の午後、北上川の河口に面した北上総合支所へ行く予定があったからです。そこは津波に流され、その場にいた49人のうち生存者はわずか3人だったと後に分かりました。お父さんはその情報を耳にし、もしかしたら妻は――と覚悟していたのです。

「まずは、家族が無事にそろったことに安堵しました。

うちの旅館には、スタッフに加え、宿泊中で帰れなくなったお客さんや、山の下のほうから避難してきた人たちもいて、合わせて80人ほどが滞在していたんです。その後しばらくの間、帰れなくなった人たちに旅館を解放し、共同生活が続くことになりました」

(取材・構成・執筆:PHPオンライン編集部 片平奈々子)

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