成功者たちは30代でどのように行動したか
2012年10月31日 公開 2024年12月16日 更新
世界に名を馳せる成功者たちは、30代をどう過ごしたか。本田技研工業(HONDA)の創業者・本田宗一郎は、39歳にしてなんと「人間休業宣言」をしたという。そんな本田が、どのようにして成功への道を切り拓いたのか。竹内一正氏が解説する。
※本稿は、竹内一正/著『30代の「飛躍力」 成功者たちは逆境でどう行動したか』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集してお届けする。
30代は、「運」と出合うための準備期間
さて、ピストンリングの製造方法を基礎から学びなおした本田が35歳になる頃、日本は太平洋戦争に突入してしまった。人々の平穏な日常は次第に戦時色で染められていく。
高温高圧の過酷な環境下で使われるピストンリングを工場で安定量産するのは容易ではなく、さらなる壁が待ち受けていた。本田は自動車修理工場の「アート商会浜松支店」を弟子に譲って東海精機重工業を立ち上げ、ピストンリング製造により一層注力していく。
そして、苦労して作り上げたピストンリングはトヨタ自動車工業に納めることになった。
だが、現実は想像以上に厳しかった。3万本を生産してその中の50本を選んで納品検査をしても、合格は3本しかなかったという散々な結果に本田は愕然とした。さらに、太平洋戦争の戦局は次第に厳しくなり、物資が手に入りにくい世情となっていった。
戦時中にはトヨタ自動車の"本家"である豊田自動織機製作所が出資をして東海精機重工業を資本金120万円の会社に増強し、ピストンリングの生産の安定化を図ることに。本田は30代半ばにさしかかっていた。
ところで、ピストンリング生産で本田が重要視したのは、女性工員にでもできる生産方式だった。男性工員の経験やノウハウに頼った生産方式ではなく、自動式に改良したことは極めて独創的だった。この考え方はその後のホンダの生産ラインでも生きてくる。
本田の発明力はピストンリング以外でも発揮されていた。航空機用のプロペラを作り出す自動切削機を本田は作り上げてみせた。それまで、プロペラ1本を削り出すのに1週間もかかっていた作業が、本田の切削機械を使うと30分で2本もつくれるという画期的なものだった。世間は大いに注目し、軍から表彰を受けるほどだった。
ところが、昭和20年、地元浜松を大地震が襲った。三河湾を震源とする三河地震である。東海精機の工場は倒れ、機械は使えなくなった。そうこうするうちに太平洋戦争が終わりを告げた。本田は38歳になっていたが、心は不完全燃焼のままだった。
戦争が終わると、東海精機の株主だったトヨタ自動車は、本田に「トヨタ向けの部品をつくったらどうか」と事業話を持ちかけてくれた。だが、本田宗一郎はこれをあっさり断ってしまう。
戦時中はトヨタからあれこれ言われても株主だからと仕方なくやっていたが、戦争が終わったのだから今度は自分の好き勝手なことをやりたい、と思ったわけだ。このあたりが本田らしい。
結局、東海精機をトヨタ自動車に売り渡して手にした金が45万円。これを元手に次に何をしようかと考えたが、思い当たらず、1年間様子を見ようと遊び暮らすことにし、「人間休業」を宣言した。
戦争が終わったとき本田は、「軍が威張りくさる時代が終わってよかったな」と漏らしていた。本田は権力と統制が大嫌いだった。この気質は後に通産官僚との対立まで引き起こすが、それはおいおい話していこう。
それにしても、敗戦後は日本中が食料難に苦しんでいた。だが、当時の人々がなんとか生き抜こうと懸命に野菜をつくったりするのを横目に、本田は女房に向こう1年食わしてくれと頼んで何もしないでいた。
30代の本田は、飛躍するどころかご隠居さんのような状況だった。女房のさち夫人によれば、ほとんどの時間は何もしないで「何も仙人」だったらしい。