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連載小説「報復捜査」 第4回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年09月25日 公開

連載小説「報復捜査」 第4回 安東能明

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第4回

霞が関にある警視庁本部、その二階の取調室は、冷房が効きすぎていた。六月の夕方の熱気から来た伊場には、冷気が肌に刺さるように感じられた。窓はない。蛍光灯だけが白く照っている。机を挟んで、垣内と山口が向かいに座った。これは任意の聴取のはずだった。だが、その部屋の構造も三人の配置も、どこから見ても取調室だった。

垣内が自動音声のように、無機質な声を発した。

「それでは始めます。伊場恵介巡査部長。本日、午後一時五十分過ぎ、吉祥寺本町二丁目の雑居ビル屋上において、警視庁公安部外事二課第一係所属、小暮和孝巡査部長に対して発砲し、死亡させた。これは事実ですか?」

しばらく迷った。

「もう一度訊きます」

垣内が同じことを繰り返した。

観念した。逃げる術はないと思った。自分が撃ったのに間違いなかった。

「......はい」

「発砲した際、あなたはどこに位置していましたか?」

「給水塔があって、犯人を正面から見える位置に」

「給水塔のどちら側ですか?」

「......東側だったと思います」

「阿久津容疑者とは、どれくらい離れていましたか?」

「十五メートルくらい」

「給水塔の陰から飛び出したのはなぜですか?」

「受令機から副署長の発砲許可命令が入ったので」

「命令が入ったのは何時ですか?」

「正確な時刻は確認していません」

「なぜ確認しなかったのですか?」

「緊急事態です。時刻を確認する余裕などありません」

垣内がペンを走らせた。右隣の男が手元の資料に何かを書き込んでいる。左の男は、ただ伊場を見ていた。

「あなたが給水塔の陰から出た時点で、阿久津被疑者の状況は?」

「女児を左腕で抱えて、右手の包丁を握っていました」

「女児に危険が迫っていると判断しましたか?」

「はい」

「その判断の根拠は?」

「包丁が首筋に押しつけられていたし、女児が悲鳴を上げた」

「悲鳴を聞いたのは、小暮巡査部長が射線上に現れる前ですか、後ですか?」

「たぶん......前です」

「つまり、小暮巡査部長が現れた時点では、女児への危険はすでに確認済みだったわけですね?」

「そうかもしれないです」

「であれば、なぜ小暮巡査部長に向けて発砲したのですか?あなたの任務は阿久津被疑者の制圧ではなかったのですか?」

伊場は、一拍置いた。

「だから、小暮がわたしに銃口を向けたからとっさに撃った」

「小暮巡査部長があなたを撃つ意図を持っていたと判断した根拠は?」

そんなことまで、と伊場は思った。

「銃口がわたしに向いてたし、引き金に指がかかっていたはずです」

「あなたは興奮状態にありましたか?」

「......あったかもしれません」

「あったかもしれない、とは。あったのですか、なかったのですか?」

「興奮していました」

「興奮状態にあった場合、状況の認識が正確でない可能性があります。その点は認めますか?」

「......否定しませんが」

「小暮巡査部長の銃口がはっきりとあなたに向いていたと断言できますか?距離は十メートル前後、興奮状態での判断です」

「銃口はわたしに向いていました」

垣内は表情を変えず、ペンを走らせ続けた。

「小暮巡査部長が先に銃を向けましたか、あなたが先ですか」

「小暮が先です」

「断言できますか?」

「できます」

「発砲する前に、警告しましたか?」

「しません」

できるわけがなかった。

「なぜ警告しなかったのですか?」

「時間がありませんでした」

「警告する時間がなかったと判断した根拠は?」

見えない火で、じりじりと炙られているように感じる。

「ですから、小暮は引き金に指がかかっていました。対応しなければ撃たれると判断しました」

「その判断は、訓練に基づくものですか?」

「訓練?」

訊き返したが、応答はない。

「訓練て言えばそうかもしれないけど」

「訓練では、警告が困難な状況下での発砲についてどのように指導されていますか?」

「脅威が明白で即応が必要な場合、警告なしの発砲が許可されています」

「小暮巡査部長は同僚の警察官です。それでも脅威と判断しましたか?」

「銃口を向けられていました。相手が小暮であっても、脅威と判断せざるを得ませんでした」

「小暮巡査部長とは面識がありましたか?」

「小学校時代からの親友です」

垣内の目が、わずかに動いた。

「それは今回の判断に影響しましたか?」

「判断とか......わかりません。体が先に動きました」

「体が先に動いた、とは?」

「反射的に引き金を引いただけですから」

「反射的に、ということは、意識的な判断ではなかったということですか?」

「訓練での動作が出たかもしれないです」

「その訓練は、同僚の警察官に銃口を向けることを想定したものですか?」

伊場は呆れた。そんな訓練など誰ひとりとして受けたことはない。答えようがなかった。

「一般に脅威に対する対応として訓練されているだけです」

左に座る山口が、初めて口を開いた。

「伊場巡査部長。小暮巡査部長が発砲する意図を持っていたと、いまも確信していますか?」

伊場は、少し間を置いた。

「......そう思います」

「迷いがありますか?」

「確かめる術(すべ)はありません」

「確かめる術がないということは、確信が持てないということではありませんか?」

真綿で首を絞められているような感覚だった。

「瞬間の判断で、脅威と認識しました」

「瞬間の判断が正しかったかどうか、いまのあなたはどう思っていますか?」

伊場は答えなかった。

「伊場巡査部長」

「......わかりません」

山口が、無言でペンを走らせた。

「最後に確認します」と垣内が言った。「小暮巡査部長への発砲は、自己防衛のためであったと認識していますか?」

「そう認識しています」

「間違いありませんか?」

「間違いありません」

垣内は書類を揃えた。

「伊場巡査部長。本日より一週間、職務停止を命じます」

「......わかりました」

「拳銃は引き続き返納のまま保管します」

「はい」

「何かご不明な点は」

「ありません」

垣内は事務的にうなずいた。それで、終わった。

問答のあいだじゅう、垣内は一度も、小暮がなぜ屋上に現れたかを訊かなかった。公安の刑事がどうして拳銃を持っていたかも。なぜ立会いを形だけにして、ひとりで抱えたのかを訊かなかった。伊場の行動と判断、そして責任だけを問い続けた。まるで、はじめからそこだけを問うと決めていたかのようだった。自分が属している組織の冷徹さを肌で感じた。

本部を出ると、生ぬるい夜気が肌を包んだ。午後七時を過ぎていた。新宿で地下鉄丸ノ内線を使い、中央線に乗り換えた。事件は大きく報道されているはずだが、チェックする気は起きなかった。吉祥寺駅で降りる。タクシーを拾った。下連雀にある待機寮に着いたのは午後八時を回っていた。比較的新しい警察官専用宿舎だ。守衛のチェックを受け、エレベーターで四階に上がった。フローリングの1K、玄関脇にIHコンロとミニ冷蔵庫、ユニットバスがあるだけの狭い居室だ。いま建物全体は静かだった。

冷蔵庫を開けると中はほとんど空で、奥に冷凍ピザが一枚あった。コンロで焼き目をつけ、水を一杯飲んだ。焼けたピザを皿に乗せて食卓に座り、食べた。味はしなかった。噛んで飲み込む。食べ終わると戸棚から焼酎の瓶を出して、グラスに氷を入れながら、小暮のことを思った。

ふたりとも、八王子の出身だった。伊場は駅に近い子安町(こやすまち)の一軒家で、小暮は富士森公園のそばで育った。市立三小から六中と、九年間ずっと同じ学校に通った。放課後はふたりして八王子じゅうを自転車で乗り回した。高校は別だが、伊場は日大法学部へ進んで警察官になり、小暮は東京外大を出て公安に入った。伊場の父親は地域課の警官で、三人兄弟の末っ子として育った。ひとりっ子の小暮は、都庁の幹部職員だった父親に大事に育てられた。育ちも進んだ道も、よく似ているが、どこか違った。それでも、ずっと親友だった。

グラスの氷が、音を立てた。

一昨日の深夜、電話の向こうで聞いたのと同じ音だった。小暮は、ひとりで飲んでいた。

伊場はグラスを置いた。

おれは、小暮を撃った。

その事実だけが、岩のように胸の上にのしかかっていた。小学校からの親友だった。九年間、同じ学校に通った。八王子じゅうを自転車で走り回った。その小暮の首を、自分の弾が貫いた。

手のひらを見た。引き金を引いた右手だ。引き金の固い抵抗も、弾ける反動も、まだそこに残っている気がした。あれが、小暮の命を奪った。

小暮は「おまえのせいじゃない」と言った。だが、そんな言葉を真に受けられるはずがなかった。撃ったのはおれだ。ほかの誰でもない。瀕死(ひんし)の親友が、最後の力でおれを赦そうとしただけだ。あいつは、そういう男だった。死ぬ間際まで人を気遣う。だからこそ、あの言葉はよけいにつらかった。

涙は、出なかった。悲しみが、まだ形になっていなかった。胸の奥に巨大な空白がある。そこに詰まっていたはずの何かが、すべて抜け落ちていた。

警察を辞めよう。

ふいに、そう思った。

おれに、警察官でいる資格はない。同僚を、それも親友をこの手で撃ち殺した男が、これからものうのうと警察手帳を持ち続けるなど、できるはずがない。職務停止が明けたら、辞表を出そう。それしかない。

立てこもり犯を制圧できなかった。人質の子どもは助かったが、それはおれの手柄ではない。おれはただ、親友を撃った。それだけだ。

生まれてこのかた、これほど深く落ちたことはなかった。何も考えられなかった。考えようとするそばから、屋上のあの一瞬に引き戻される。小暮が射線上に現れる。撃つな、と叫ぶ。銃を構える。そして――おれが引き金を引く。

時計を見ると、午後十時を過ぎていた。テレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせた。梅雨入りの天気予報と合わせたようにクールビズの風景や夏の快眠グッズが長々と流れている。終わりかけに「吉祥寺立てこもり事件の続報です」とアナウンサーが口にした。「犯人と警察官一名が死亡、人質の女児は無事救出されました。詳細は調査中とのことです」

それだけで、CMになった。

射手が誰かは一切公表されていないようだった。だが、その事実も、いまの伊場には何の慰めにもならなかった。公表されようがされまいが、撃ったのは自分だ。それは変わらない。

伊場は焼酎をあおった。酔いは、いっこうに回ってこなかった。

辞めるしかない。

もう一度、そう思った。それだけが、いまの伊場に残された唯一のけじめの取り方に思えた。

横になった。眠れないとわかっていたが、目を閉じた。暗闇の中で、小暮の声が聞こえた。

「おれみたいに、ならないでくれ」

その言葉の意味さえ、いまは考える気力がなかった。ただ、胸の上の岩が、少しも軽くならないまま、夜が更けていった。

〈つづく〉

プロフィール

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

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