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「AKB48」キャラ消費の進化論

2010年11月08日 公開

斎藤環(精神科医)

デビュー当時からは隔世の感

 2005年にデビューしたアイドルグループ「AKB48」の人気は、このところ一気に加速しつつあるようだ。さまざまなプロモーションにも起用されるようになり、オタク男性に限らず男女ともに幅広い支持を集めつつある。

 アイドル不毛の時代といわれて久しいが、彼女たちの人気はまぎれもなくアイドル人気にほかならない。しかし、国民的アイドルといわれてもピンとこない方も多いだろうから、Wikipediaなどを参考に概要を記しておこう。

 AKB48とは、秋元康氏が久々に総合プロデュースを手がけたアイドルグループであり、その名のとおりほぼ48人の少女で構成されている。

 ドン・キホーテ秋葉原店八階にある「AKB48劇場」をホームグラウンドとして、「会いに行けるアイドル」をコンセプトに、ほとんど毎日公演を行なっている。遠い存在だったアイドルをより身近な存在にすることで、その成長過程をみせながら、ファンとともに成長していくアイドル・プロジェクトを謳っている。

 第一回公演の観客がわずか7人だったことは、いまや語り草となっているが、現在では競争率100倍以上のプラチナチケットと化しているようだ。2007年には全国ツアーから海外公演、紅白出場も果たしている。楽曲は歌謡曲テイストの親しみやすいものが多く、ヒットチャートの常連となりつつある。

 最近、週刊誌などで「AKB人気にもそろそろ翳りが……」などといった記事が散見されるが、逆にこういう記事が出るくらいなら、その人気は“ホンモノ”といってよいだろう。

 彼女たちのデビュー当時のことは、いまなお記憶に新しい。なにしろどこからどうみても安直な「便乗アイドル」にしかみえなかったからだ。

 便乗というのはこういうことだ。2003年に出版された森川嘉一郎氏の著書『趣都の誕生萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)や2004年の『電車男』(新潮社)ブームをきっかけとして、当時はちょっとしたアキバブームがメディアを席巻していた。「萌え」や「メイド喫茶」、「腐女子」といった言葉が日常に浸透し、オタクたちが背負いつづけてきた負のスティグマがほんの少し軽くなったかにみえたあのころ。

 そこへもってきて「AKB48」である。かつて時代の寵児だった秋元康様も、さすがにカンが鈍ったか。便乗するに事欠いて、二次元の街に三次元を持ち込むとは何事だろうか。僕はこの「痛いニュース」を冷笑とともに一瞥し、すぐに忘れてしまった。世間も大方も、そういう見方だったのではないか。

 当時は想像もつかなかった、このところのたいへんな人気ぶりは、どうにも不可解としかいいようがない。
 

複数買いを促す「AKB商法」

 しかしわかりやすいといえば、これほどわかりやすい現象もない。要するにマスコミ業界の時計は1980年代で止まっているのだ。どこからみてもマドンナとダブるレディ・ガガの人気ぶりをみてもわかるとおり、“80年代的なモノ”はいまなお“強い”。そういえば当のマドンナ自身も50代にしてバリバリ現役だったりする。変な時代だ。

 そう考えるなら、“秋元康的なモノ”がいまだ有効なのも頷ける。“とんねるず”の不動の人気も、それゆえのものだろう。要するにAKB48とは、おニャン子クラブのプロデュースで一世を風靡した“鵜飼い”の名匠が、満を持して練り上げた完全無欠の永久集金機関なのだ。しこうしてその内実は、年端もいかない少女たちを次々と搾取し使い捨てつづける“芸能界野麦峠”。

 そのせいかどうかは知らないが、AKB48の人気が盛り上がるにつれて、あちこちから批判が噴出しはじめているという。

 まずはアイドル志望の少女を搾取しているという視点。

 批評家の福田和也氏は「現代の角兵衛獅子」と評したそうな。なんとも古風な比喩だが、要するに「児童虐待+搾取」への批判である。

 近い視点では、なんと経済評論家の金子勝氏が「モーニング娘。」との対比で、「AKB48」批判を自らのブログで展開して話題になっている。その趣旨はおおむね以下のとおりだ。

 まず、ドラマがあり(オーディションに落ちた負け組のリベンジ)個性的だった「モー娘。」に比べ、AKB48は没個性的である。さらに、人気投票のために金持ちが同じCDを複数買いできるような市場原理はおかしい。人気投票のランキングを競わせる手法は、一種の成果主義であり、薄給と成果主義のもとで酷使されるメンバーは、まるでユニクロの社員のようだ。膨大に使い捨てられる派遣労働者と、一人だけ儲かる秋元康という構図。

 この批判には反論も多く寄せられたようだが、煩瑣なのでここでは省略する。ただ、ここで少し触れられているCD複数買いに関しては、いわゆる「AKB商法」として有名であるため、ごく簡単に解説しておこう。

 AKB48関連の商品では、握手会や投票権などのノベルティーをつけることで、ファンがCDなどの商品を複数買いするように仕向ける手法が、最初期からとられてきた。

 手法の具体例としては、同一タイトルのCDを複数仕様にする、商品に多種類の生写真などを添付する、商品一点ごとに握手会や個別写真会、個別サイン会、ハグ会、各種投票への参加券を付ける、などがある。

 複数買いの問題としては、ノベルティー目当てでCDを大量購入し、握手券や投票券だけを抜き取ってCDは捨ててしまうようなファンの存在が指摘されている。あるいは転売屋の暗躍が目立ちはじめているという問題もある(身分証明書提示などで対策はとられているが)。

 なかでも極めつけは、2008年に発売されたCDに44種のポスターをランダムに付け、44種のポスターをすべて揃えれば特別イベントに参加できるという企画だ。さすがにこれは独占禁止法(不公正な取引)に抵触する恐れがあるとして中止となっている。

 たしかにこうしたファンの囲い込みについては、いささか問題なしとしない。アイドルと一緒に旅行ができると謳った高額なツアーなど、なまじ距離が近いがゆえの問題があるともいえる。関連商品のコンプリートを狙う完璧主義のファンならば、速攻で破産コースだろう。

 もっとも、意図的かどうかはともかく、この種の囲い込み商売については後述するジャニーズなどに関しても該当するところはあり、これが芸能界の常套手段といわれれば、それはそれで仕方がない。

 このほか、この種のグループにはつきものの各種スキャンダルの噂もあるようだが、これらについては真偽を確認しようがないためここでは採り上げない。あるいは「モー娘。」と比べて没個性、「誰が誰やらわからない」といった、外見にまつわる印象批評に関しては、不毛かつ下世話なので僕は関知しない。そもそも懸命に頑張っている少女たちに対して失礼だし、忘れられているかもしれないが、僕は思春期専門の精神科医なのだ。

 秋元康氏が儲けすぎるとかの話は、さらにどうでもいい。むろん僕とて、儲けている人間を嫉む気持ちは誰にも負けない。しかし、彼の収入があたかも不労所得であるかのような批判に対しては、ひとこと擁護しておかざるをえない。

 350曲ともいわれるAKB48のオリジナル曲、そのすべての作詞を担当したのが秋元氏自身なのである。これに、外部には直接みえにくいプロデュースの仕事が加わるわけで、こういう場合はせめて「儲け」ではなく「稼ぎ」と表現すべきではないだろうか。

 余談ついでにいえば、京都造形芸術大学の副学長にして作詞印税だけで十分すぎるほど収入があるはずの氏が、“セミリタイア”などの守りに入らず、あえてアグレッシブな賭けに打って出た姿勢は大いに評価できる。

 現時点での秋元氏への批判のほとんどが「出る杭は打たれる」式のものでしかないことは、氏にとってはむしろ喜ばしいはずだ。的を外した批判の大合唱くらい有効な煙幕はないし、ついでにいえば宣伝にもなるのだから。

 ともあれ本稿は、「批判」ではなく「分析」だけをめざしていることを、ここではっきりさせておこう。
 

特筆すべきは楽曲のよさ

 とはいえ僕自身、ちょっと前までなら、AKB48について聞かれれば「もういったい誰が誰やら」的な答えを返していたはずなのだ。ところがこの原稿を書くにあたり、楽曲の公式PVやら『マジすか学園』の一部を視聴してみて驚いた。これはかなり、いいものだ。いずれも誠実かつ緻密に練り上げられた一級のプロダクトには違いない。少なくとも表層的なマーケティングやブームへの便乗精神だけで、これだけのものは絶対に創れない。青少年が大挙してハマっていく気持ちは、よく理解できたつもりだ。

 とりわけ特筆すべきは、その楽曲のよさだ。むろん“相対評価”であるにせよ、秋元康氏の半ひねりした歌詞は、こと歌詞については絶望荒野と化したJ-POP業界においてひときわ輝いている。かつての「歌謡曲」の力を取り戻したいという、その明確な意図にも賛成だ。

 いま若い世代のあいだで、ちあきなおみや山口百恵といった昭和の歌謡曲ブームがひそかに進行中らしい。歌謡曲の真髄の一つは、メロディのわかりやすさに加え、情緒や関係性に隠喩的な捻りを加えて楽曲に乗せるテクニックにあると僕は信ずるが、秋元氏の歌詞はまさにそうした伝統に忠実たらんとしているかにみえる。

 いや、これはもはや他人事ではない。僕自身、個室に閉じ込められてひたすらAKB関連の画像や動画だけをみせられる拷問を受けたとしたら、翌週にはAKBの公演チケット争奪戦に加わっているかもしれない。絶対にそうならないと断言する自信はない。

 もっとも現時点では、篠田麻里子はフツーによいとか、渡辺麻友は味わい深いといった程度のニワカでしかないので、個々メンバーの論評にはあまり深入りせずにおこう。ただ、個人的には板野友美の今後が気になって仕方がないことはいっておく。AKBにおける工藤静香的なポジションを担う彼女が今後どう受容されていくかは、僕が現在進めているヤンキー研究における重大な関心事の一つであるからだ。

 遠巻きにしてAKBを批判するのは誰にでもできる。批評的なことを口にしたければ、せめて彼女たちの歌やダンスに接したうえで、具体的に問題点を指摘すべきだ。残念ながら数多くある批判のコメントのなかに、そうした指摘をみつけることはできなかった。

 むしろ重要なのは、なぜAKB48が成功したのか、そちらの分析だ。たしかに商法としては80年代的なところも多分にある。しかし、まったく新しいリアリティーなしで、これほどの人気を集めることは難しいだろう。

 秋元康氏は最近のインタビュー(『SWITCH』特別編集号「特集:AKB48」)で、彼なりにAKB人気の分析を試みている。彼はAKB劇場を自身の遊び場ととらえたうえで、ファンの変遷についてこう語る。

「この劇場は、初期の頃は3、40代の、いわゆる80年代アイドルを体験してきた人達が結構支えてくれていた。多分『大声ダイヤモンド』あたりから中高生が増えてきたのかな。つまり現在のAKBへの支持は二重構造になっている。現在の中高生には“新しい”もので、古き良きアイドルを知っている層には“懐かしい”ものとして映っている」

「アイドルって最終的には同性に好かれないとダメなんです。特に女性アイドルはそう。それから子どもに受けなければいけない〈中略〉やっぱり『一生懸命なところが好き』という声が多いですよね。今って一生懸命を向ける先がない。そうなると“託す”んだよね。〈中略〉AKBにも託している人がとても多い」

「子供たちの笑顔がそうであるように、少女達の一生懸命さには国境がないんですよ」

 この説明がもし秋元氏の本音であるなら、失礼ながら、氏は自分のしていることが十分にわかっているとは思えない。支持の二重構造とか少女たちの一生懸命とか、そんなことでヒットが生まれるなら苦労はない。むろん「私の作詞が素晴らしいから」とか、正面からはいいづらい本音もあったりするのかもしれないが、なんにせよ成功者の自己分析はあまり参考にならないものだ。

 よって、ここから先は僕なりにAKB人気の分析を試みてみよう。
 

「キャラ消費」の循環システム

 僕のみるところ、AKB人気の最大の要因は「キャラ消費」ということに尽きる。言い換えるなら、アイドルの人気をその記述的要素、たとえば顔の美醜をはじめとする身体的スペック、あるいは歌唱力や演技力を含む各種のスキル、あるいは「世界観」の設定などに求めてもあまり意味はない。それらは入り口においては重要かもしれないが、人気の維持において最も重要なのは、アイドルの「キャラ」なのだから。

 ここでいう「キャラ」とは、「キャラが立つ」「キャラがかぶる」などと日常的に使われている意味での「キャラ」である。漫画好きの麻生元総理が使って有名になったが、もともとは漫画やお笑い業界などで使われていた言葉だ。いまはほぼ日常語といってよいだろう。

 一見「性格」と同義語にもみえるが、必ずしもそうではない。というのも、性格という言葉には個人のなにがしかの本質があるといまなお思われているが、「キャラ」は本質とは無関係な「役割」にすぎないからだ。

 つまり、ある人間関係やグループの内部において、その個人の立ち位置を示す座標が「キャラ」なのである。それゆえ所属する集団や関係性が変わると、キャラも変わってしまうことがよくある。

 AKB人気の構造分析を試みるなら、とりあえずはこうしたキャラ消費の様相を理解しなければ先に進めない。もちろん各メンバーに固定的なキャラが割り振られているわけではないが、大島優子がおっさんキャラで高橋みなみがすべりキャラで、板野友美がギャルキャラで、という具合の差異化がなされているのは周知のとおり。逆にキャラに注目するなら、AKBのあの“人数”や、“成長過程をみせる”という戦略がいかに重要であるかがよくわかる。

 まず“人数”だ。48人という人数は、一つのクラスを連想させる。いじめ研究者などのあいだではよく知られた事実だが、現代の中高生の教室空間は、いわば「キャラの生態系」と化している。人数分の異なったキャラが存在し、棲み分けているのだ。ここでは暗黙の了解事項として「キャラがかぶる」「キャラが変わる」といった事態は慎重に回避される。また、この空間においてひとたび「いじられキャラ」などと認定されれば、少なくとも次のクラス替えまでは「いじめ」や「いじり」の対象になってしまう。

 それでもキャラ文化が強いのは、そこにメリットもあるからだ。その最大のものは「コミュニケーションの円滑化」である。自分のキャラと相手のキャラがわかっていれば、コミュニケーションのモードもおのずから定まってくる。キャラというコードが便利なのは、元の性格が複雑だろうと単純だろうと、一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう力があるからだ。

 AKBではさらに「チームA」「チームB」といったサブグループがあり、それがキャラ分化をいっそう容易にしている面もあるだろう。キャラ化において重要なのは関係性であり、下位分類を含む40人程度の集団は、キャラの多様性を一気に把握するうえで、ちょうどいいサイズということになる。

 あまり指摘されていないことだが、キャラの分化を強力に促進するもう一つの要因として、「序列化」がある。

 たとえば教室空間においては「スクールカースト」と呼ばれる序列がしばしば存在する。これはコミュニケーション・スキルの高い上位集団からスキルの低い下位集団にまで至る「教室内身分制」だ。いったんこれが成立すると、たとえば上位者が下位者をいじめるといった関係性は固定的なものになりやすい。かくして「いじめキャラ」や「ドSキャラ」と、「いじられキャラ」「非モテキャラ」などの関係性が時とともに強化されていく。

 カンのいい人はおわかりのとおり、僕はここで、あの批判も多かった「AKB総選挙」の意義を指摘しているのだ。2010年6月に行なわれた「総選挙」は、ファンによる人気投票でAKBメンバーの序列を決定づける重要な行事である。

 選抜メンバー中上位12名は「メディア選抜」としてテレビ番組や雑誌などのプロモーションに出演することが可能になる。また上位21名は「選抜メンバー」としてシングル曲を歌う権利を獲得する。22位以下は、その名も「アンダーガールズ」と呼ばれる下位集団に所属させられることになる。

 こうした人気投票を残酷と評する意見もあるようだが、僕にはむしろ透明でフェアな序列化の手続きとも思われるため、一概に否定するつもりはない。重要なのは、こうした序列化の手続きによって、キャラを決定づけるためのレイヤー(層)はいっそう複雑化し、これとともにメンバーのキャラ分化もいっそう細やかなものへと進化するということだ。

 以上を整理するとこういうことになる。AKBは、「集団力動」にサブグループや序列化という「構造的力動」を加味することで、各メンバーのキャラを固定化し、認識しやすいシステムをつくりあげた。ファンは、彼女たちのキャラを消費したいという欲望によって動機づけられ、さらに自らの欲望が序列化を介して直接「推しメン(自分が支持しているメンバー)」のキャラ形成に関わりうるという事実によって、いっそう強く動機づけられていく。つまりそこには、理想的な意味での「キャラ消費」の循環システムが成立しつつあるのだ。

 ところで、アイドルの人気を僕のように「キャラ消費」としてとらえることに違和感を覚える人もいるだろう。しかしアイドル人気がもともと“手が届きそうで届かない存在”への仮想的な欲望によって支えられていたことを考えるなら、そこには一般的な歌手や女優への憧れ以上に、「ファンを演じている」という自意識が育まれやすくなる。

 アイドル歌手のコンサートなどで、要所要所に「○○ちゃーん」などと野太い声援が入るようになったのは70年代後半あたりからだが、この時期がオタクの黎明期と重なり合うのは偶然ではない。「ファンというキャラを演ずる自意識」の誕生は「萌え」の発生を準備し、キャラ的な自意識のもとで、アイドルのキャラ化もいっそう補強したと考えられるからだ。
 

最終進化形としてのアイドル

 こうしたキャラ消費の発展段階は、大まかにみて4段階ほどに分類できる。

 もっとも素朴でプリミティブな段階としては、クラスのアイドルへの憧れといった状況を想定しておこう。もちろん片思いからはじまるわけだが、相互性がまったくないわけではない。班が一緒になって口を利いたり、フォークダンスで手が触れあったり、委員や当番を一緒にやることで距離が接近したりすることもあるだろう。いわばアイドルへのキャラを自らの感情と等価交換しているような段階だ。この段階を「アイドル消費A」と名づけよう。

 次にやってくるのは、70年代におけるアイドル人気の段階だ。プロダクションによる管理のもと、ファンはレコードやコンサートにお金を支払い、キャラクターを消費する。ここで初めて、キャラクター消費に金銭が介在するようになる。プロダクションの管理はファンを苛立たせもするが、著作権や貨幣を介したその都度の契約関係にファンも合意せざるをえないため、このシステムに甘んずるほかはない。ファンはシステムに定期的に年貢を納め、システムはキャラクターを再分配する。この段階を「アイドル消費B」としよう。

 80年代から90年代にかけて、おニャン子やハロプロが実現したことは、プロダクションがアイドル個人を完璧に管理することをやめ、集団力動に加えてメンバー個人のスキャンダルなども取り込みながら、そこに自生する秩序に従ってキャラが成立していくプロセスそのものを利用する、という手法であったように思われる。とりわけ90年代後半以降は、ネットの普及が状況を複雑化し、情報管理が困難になったということもある。この段階が「アイドル消費C」に当たる。

 アイドルの「集団力動」が、いかにしてキャラ生成に寄与するのか。これについては、興味深い証言があるので紹介しておきたい。

 松本美香『ジャニヲタ女のケモノ道』(双葉社)がそれだ。「ジャニヲタ」とは「ジャニーズ事務所所属のタレントのオタク」を指す。彼女によれば、「ジャニヲタ」のキャラ消費のありようは、「モーヲタ(=モーニング娘。のファン)」に似ているらしい。さらに重要な証言は「キャラ萌え」に関するくだりである。

「ジャニーズタレントくんら最大の“魅力”かつ“売り”は『キャラ』なんですよね。バラエティー番組に出演する機会が多いからどうしても最も求められるのがそれなんだろうけど、今の時代はまずアイドルったってキャラが立ってないと覚えてもらえないしTVに出られない」

「もちろん、とっかかりは『顔』ですよ。でもね、『顔』はあくまでも『入り口』でしかない。〈中略〉あまり好みのルックスじゃなくてもキャラがツボった瞬間に『恋のメガネ』を装着!」

「ジャニヲタの基本は『キャラ萌え』と言っても過言じゃないかも」(いずれも、前掲書)

 顔よりもキャラ重視というファン心理に関する指摘は重要である。

 さらに松本氏によれば、ジャニヲタは「ジャニーズ」というブランド好きにほかならないとのことだ。彼女がその事実を発見したのは、自分が好きだったあるジャニーズのタレントが事務所を移籍したときだった。ジャニーズ時代よりも追っかけが容易になって喜んでいた彼女は、次第に気持ちが冷めていく自分を発見して愕然とする。そう、彼女はそのタレント本人が好きだったわけではない。「ジャニーズ事務所に所属する彼」が好きだったのだ。

 彼女はその心理を「ジャニーズの世界観の魅力」や事務所の「ファミリー感」が原因であるとしているが、この感覚もある程度はAKBファンに通ずるのではないか。松本氏の指摘が興味深いのは、ジャニーズ人気における「キャラ萌え」要素と「ブランド」要素をはっきり結びつけた点にある。

 その意味でAKB48もまた、「アイドル消費C」の段階にいるかにみえる。しかし僕の考えでは、すでにAKB人気はその先の段階、すなわち「アイドル消費D」の段階にある。

 そう、おそらく「AKB商法」とは、現時点におけるキャラクター消費の最終進化形なのだ。むしろキャラ消費という点では先行していたはずのアニメ業界ですら、「AKB商法」に追随しつつある(人気アニメ『けいおん!』コミックスの書店別特典など)ことからも、それはよくわかる。

 どういうことか。その鍵はやはり「総選挙」にあるだろう。

 僕がここで展開してきた「アイドル消費A→D」の発展段階は、柄谷行人氏が『世界史の構造』(岩波書店)で述べている「交換様式A→D」の段階分類からヒントを得たものだ。その詳しい対応関係の検討は別の機会に譲るが、ここで重要なことは柄谷氏が、もっとも高次元の交換様式Dの出現を、もっとも原始的な互酬的交換Aの回復、それもフロイトのいう「抑圧されたものの回帰」としての回復であると述べている点だ。

 柄谷氏がいうネーション、すなわち「想像の共同体」(B・アンダーソン)においては、失われたはずの互酬的交換が見かけ上回復される。僕には「握手会」や「総選挙」といった、キャラとの“直接”の触れあい、あるいはキャラの養成に“直接”関わりうるという「幻想」こそが、抑圧された互酬性=「アイドル消費A」の回復というかたちで、ファンの結束を高めているように思われてならない。

 彼らはそれが幻想であることを知っている。しかし、あるいはそれゆえにこそ、彼らはますます「想像の共同体」に依存することになる。さらに完璧なことには、秋元氏自身がそうしたメカニズムの介在を、それほど明確には自覚していないようにみえることだ。仕掛け人すら無自覚な装置こそが、もっともうまく機能するだろう。

 アイドルの三次元性=実在性なくしては成立しえなかった「アイドル消費D」のスタイルが、アニメやゲームのキャラ消費にいかなる影響をもたらしていくか。そのときアキハバラに何が起こるのか。この「実験」の行く末からは当分目が離せそうにない。


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