ブータン人はほんとうに「幸福」か
2011年04月04日 公開 2022年08月17日 更新
お金で幸せは買えない?
前回採りあげたチュニジアの動乱は、その後すぐにエジプトに飛び火して、ムバラク大統領の辞職につながったことは、読者諸賢はすでにご承知だろう。そしてこちらも、チュニジアの場合と同様に、なぜ人びとがいきなり動乱を起こしたのかについては原因がはっきりしない。ムバラク大統領の圧政に人びとがうんざりした、というのが通例の説明だが、チュニジアの場合と同様、べつにそれがいま起きるべき理由はなさそうだ。
前回も書いたが、ツイッターやフェイスブックのおかげ、という説もある。でもこれらはたんに伝達のツールで、直接の原因とはいえない。ウィキリークスが大統領たちの汚職や蓄財の実態を報道したからだという説明もあったが、その程度のことなら現地の人びとはとっくに承知だ。またネット上のブログでは、チュニジアもエジプトも国民が親米的な政権に嫌気が差したなどという説明もあったけれど、でもその後、民主化デモは反米的なスーダンやリビア、それ以前にはイランでも起きていることを考えると、説得力のある説明とは思えない。
結局、1960年代に学生運動が世界中に広がり、70年代に南米諸国でデモが相次いだように、何か社会変革運動が同時多発的に起こる時期があるとしかいいようがないのかもしれない。
が、個人的には大学生が増えたのにそれに対応する職がないことからくる不満と、そして経済成長の恩恵をすぐに享受できない貧困層の不満との合わせ技ではないかと思っている。そしてもしそうなら、こうしたデモによる社会的な不安は、かえって社会を貧しくして彼らの不満を増大させる可能性さえあると思っている……というような話をツイッターでしていたところ、「人びとは経済成長よりも自由を重視するのだ、お金で幸せは買えない」といった主張が聞かれた。それで興味をもって少し調べてみた、というのが今回の本題なのだ。
お金で幸せは買えない、人の所得が上がっても幸せは上がらないという主張はよく聞かれる。所得が上がってくれば、幸福度を増やすために必要な金額も増え、どこかでそれは横ばいになるといわれる。また豊かな国が幸せとは限らないともいわれる。
だが、そういうことを口走る人の多くは、じつはすでに生活の苦労のない十分に豊かな人だ。あるいは、自分が金持ちになれないやっかみでいっているだけにみえる場合もある。この手の話ではよくブータンが引き合いに出される。王様が、「うちは国民総生産ではなく国民総幸福をめざす」と宣言し、伝統的な生活が強制されて貧困で医療も劣悪だが人びとは幸せ、というお話だ。
説得力あるハーバード大学の研究
でも、そのブータンでもとくに若者は、豊かさを夢みているそうだ。そして実際にいろいろな調査をみてみると、同じ国のなかでは豊かな人びとのほうが幸福度が高いことは昔から知られている。さらに国同士を比べても、所得の高い国のほうが平均的な幸福度は高いことがハーバード大学の経済学者たちによって統計的に示されているのだ。幸福だけじゃない。この論文をみると、所得が高いほうが怒りや不安や絶望や暴力なども低くなる。生活のよい面は改善し、悪い面は下がる。
さて、ぼくは仕事で途上国に行くことが多い。そしてそこの人びとをみると、所得と幸福は関係ないという説にもよろめきたくなる。彼らがとくにぼくたちより不幸には思えない。そして生活に悪い部分があればこそ、よい面をもっと深く享受しているように思えることもある。でも実際はどうなんだろう。そして日本での所得低下に伴う弊害をみると、ぼくはこの研究に説得力を感じるのだ。
これはもちろん、人びとにお金をあげれば自動的に幸せになる、ということではない。相関と因果は別物だ。所得の高い仕事は満足度や達成感の高いものが多く、人びとは幸せに感じやすいというだけなのかもしれない。国としての所得が上がるような施策は、税収を上げて、人の幸福度に貢献するような公共サービスを提供しやすくするということなのかもしれない。
また、「幸福」というものの中身もはっきりしない。「幸福」というのと「人生の満足度」というのと「厚生」「福祉」というのとでは(そしてその計測方法次第で)結果は全然違ってくる。人生に満足しているのに幸せではない状態ってなんだろう、と考えるのは、ずいぶん楽しい哲学談義だ。
が、こんなことを始めるきっかけになったアラブ諸国はどうなるだろうか。これを書いている時点では、エジプトも諸国も大統領が消えただけで、その後の方向はまったくみえない。来年のいまごろ、どの国もいまより自由かつ豊かになっていてくれればなによりではあるのだが……。