作家・江上剛が怪物商人・大倉喜八郎を書こうと思った理由
2017年04月17日 公開 2017年04月17日 更新
大倉財閥創設者・大倉喜八郎(1837〜1928)
すごい日本人がいた!
大倉喜八郎を書こうと思ったのは、拙書『成り上がり』(PHP研究所刊)で金融王安田善次郎を書いている時だった。二人は、盟友だった。二人とも庶民の出身ながら幕末から明治の混乱を生き抜き、世に出た。こんな例は珍しい。
私は、ややひねくれている。どうも忘れられたり、低い評価に甘んじている人物に共感を覚える性質らしい。
拙書『我、弁明せず』(PHP研究所刊)で描いた三井の大番頭池田成彬は、太平洋戦争の苦しい時代に日銀総裁や大蔵大臣を歴任しながら、今や全く忘れ去られている人物。安田善次郎は金融王と言われながら「ケチ」と誹謗され、これまた評価されていない。
大倉喜八郎も同じだ。戦争屋、死の商人などと呼ばれ、戦争で財を成したと悪口の言われ放題だ。確かにそういう面はある。しかし、〝薩長でなければ人にあらず〞と言われた時代に、コネもカネもない人間が世に出るためには、相当な努力が必要だったに違いない。大倉喜八郎の努力を正当に評価してやってもいいではないか。それが格差社会といわれる現在に生きる若者への応援メッセージになるのではないか。それが大倉喜八郎を書こうと思った大きな動機だ。
大倉喜八郎には、あまり知られていない事実がある。それは孫文を陰ながら支援した人物だということだ。孫文を支援した財界人は梅屋庄吉があまりにも有名だが、大倉喜八郎も大いに支援している。「それは大陸進出のための打算であった」と言う人はいるだろう。それもきっと間違いではない。しかし、私は小説家だ。それだけだとは思わない。大倉喜八郎は、孫文に、自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのだ。それは時代を変える強い意志を持つ男の匂いだ。そして今風に言えば、孫文とともに「グローバル」に生きたいと願ったのだ。
その夢の一部を大倉喜八郎は中国大陸で叶えた。そして日本の敗戦とともにその全てを失った。中国に投資したものは中国に返すのが当然とばかりに実に潔い。日中関係に暗雲が漂う今日、こんな日本人がいたことを中国の人にも知ってもらいたいと思った。それも執筆の動機の一つだ。