「ローディの和」が終焉を迎えるとき
逆に見れば、天の時も地の利も人の和もなにもない状態では「ローディの和」は維持することができません。
かねてからフランス王シャルル八世は、「アルフォンソ五世が奪取したナポリの地は、本来フランスのものであるから、その王位をフランス王に渡せ」とナポリ王を脅していましたが、ついに1494年、イタリアに出兵します。ナポリを攻めるのに先ずミラノ公国に向かったのは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァが、シャルル八世と結んだからでした。
ルドヴィーコは、「ローディの和」を結んだフランチェスコ・スフォルツァの四男です。彼は野望を満たすために、ミラノ公であった兄をひそかに暗殺し、公位を簒奪しました。
彼の行為は「ローディの和」を結んだ国々から批判され、特にナポリ王の非難には激しいものがありました。
公位を簒奪した自分の立場を危ないと考えたルドヴィーコは、シャルル八世にミラノ城の鍵を渡したのです。彼がナポリ王になってくれたほうが安心だと計算したのでしょう。
シャルル八世はミラノを経て、一路フィレンツェ共和国を目指しました。今度はフィレンツェがパニックに陥ります。
このときフィレンツェをリードしていたメディチ家の当主は、「ローディの和」に一度だけ訪れた危機を救ったロレンツォ(コジモの孫)の子ども、ピエロでした。若くして父を後継しましたが、もともと短慮で人望がなかった。
しかしピエロは「おやじに出来たのだから、俺だって」とばかり、ミラノへと南下するシャルル八世と会い、フィレンツェへの入城を止めようとしました。
しかし人間の器量の無さが露骨に出て、ピエロはシャルル八世に丸めこまれ、フランス軍はフィレンツェへ入城し、悠々と通過して、ナポリに向かったのです。怒ったフィエンツェ市民はピエロを追放しました。
シャルル八世はついにナポリに入城すると、1495年の2月、ナポリ王として戴冠したのです。
こうして「ローディの和」は、みごとなほどに崩れ去りました。もっともシャルル八世がナポリの王位を維持できたかというと、君臨する余裕もなくフランスへ逃げ帰りました。ときの教皇、ボルジア家出身のアレクサンデル六世を中心とする、フランスの介入を嫌う勢力が連合してナポリを包囲したからです。
この連合軍の中に、あのミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァも参加しています。肌色がムーア人(ベルベル人)のように黒いので、イル・モーロと呼ばれた彼は、権力を求めて同盟相手を変え続けました。
しかしその最後は、シャルル八世のイタリア遠征を幕開けとして、フランスやドイツによって展開されたイタリア戦争の渦中に、味方に裏切られ、フランス軍の手によって獄死しました。
フランスへ逃げ帰ったシャルル八世は多額の負債を抱えたまま、うっかり鴨居に頭を打ち付けて死去しました。結局、シャルル八世がイタリアから持ち帰ったものは梅毒だけだった、という芳しくない逸話も残されています。
コジモが心血を注いでつくり上げた「ローディの和」が崩れ去った後、イタリア半島は再びヨーロッパの大国や諸侯が支配権をめぐって争う混乱状態に戻ってしまいました。