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信長も才能を認めた嫡男・織田信忠…正統後継者の惜しまれる「結末」



2019年10月02日 公開

和田裕弘(わだやすひろ:戦国史研究家)

 

武田氏を滅亡させる大殊勲 「天下」禅譲の準備が進むも…

武田勝頼に大勝した信長は、東方からの脅威を軽減することに成功し、近江国安土への移転を決め、年末には織田家督を信忠に譲った。信忠は本国である尾張・美濃両国と岐阜城を譲られ、領主として徐々に権限を拡大させ、同五年には松永久秀父子を信貴山城に滅ぼす手柄を立てた。

このころから信長に代わって信忠が織田家総帥として織田軍団を率いて陣頭指揮を執るようになり、本願寺攻め、播磨・摂津の平定戦など経験を積んでいった。天正十年三月には、武田氏を滅ぼす武功を挙げ、信長から「天下」を譲られることになった。

しかし、実際には「天下の権」は信長が握ったままで、徐々に権限を委譲していく予定だっただろう。小瀬甫庵著『信長記』(以下、『甫庵信長記』)には、天下を譲る時期について「来秋」(今年の秋、すなわち天正十年の秋)と時期も記しているが、本能寺の変で幻となった。もっとも、信忠は若輩の故をもって辞退したともいう。

本能寺の変に際しては、「敵前逃亡」することなく、二条御新造(二条御所)に籠城し、寡兵をもって果敢に明智光秀軍と戦った。

家臣の中には、ここはいったん難を避けて京都を落ち、本国に戻ってから光秀を討ってはどうか、と進言する者もいたが、「これほどの謀叛を企てたからには京を脱出することは不可能であろう。雑兵の手に掛かるのは無念である」と斥け、籠城に決した。しかし衆寡敵せず、自害して果てた。

その最期の武勇は奈良の僧侶のもとにも届いていた。「城介殿御働、比類なき由也」(信忠殿の働きは比類ないものだったとの由である)」

信忠の肖像画がいくつか伝わっているが、信長によく似ている。信長に比べると、たしかに若くは描かれているが、若き日の信長の肖像画といわれても納得できるほどのものである。

二代目の貴公子然とした風貌であり、端正な相貌も信長譲りである。しいて言えば信長に比べるとやや柔和さがあるのが特徴だろうか。



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