「てんまる」と漢文の関係
音読、黙読、速読、こうした読書の方法が、「てんまる」とどういう関係があるのかとおっしゃる方も少なくないかもしれません。
ですが、実は、大有りなのです!
音読だけで本を読む人たちが読者の相当数を占めていたら、「てんまる」など必要なかったといっても過言ではないかもしれません。
例えば、漢文や伝統的な和歌の道では、「てんまる」など必要ありません。漢文も、和文も、人が読んでいるのを聞いて、耳で理解できる世界です。反対に、聞いて分からない漢文、和文というのは、とても下手な文章だといってもいいでしょう。
これは、落語や講談でも同じです。
特に講談は、漢文を書き下した文体で、リズムよく耳に入ってきます。聞いて分かる文章であれば、必ずしも「てんまる」は要らないのです。
さて、漢文の原文を見たことがある人は少ないかもしれませんが、漢文の原典は、漢字だけが紙一面に並べられて「てんまる」などまったくありません。
漢文の原文を初めて見る学生の中には、それだけで圧倒されて、「もうダメ!」と音を上げる人も少なくありません。
でも、基本を押さえれば、漢文は誰にでも読めるようになる言葉です。
怖がることはありません。
ただ、条件があります。音読をしないといけないということです。
先に、私の祖母が「口をモゴモゴ」を注意したと書きましたが、漢文を読むのに、黙読をしていては、決して読むことができるようにはなりませんし、音読をしたほうが、漢文はとっても読みやすく、どんどん「速読」ができるようになるものなのです。
漢文の世界では「てんまる」を「句読」と呼びます。このリズムを体得すると、「てんまる」がなくても読めるようになるのです。
なぜかということを「てんまる」との関係からいえば、それは、漢文は「リズム」で読む言葉だからです。
漢文にも区切りはある
漢文は、リズムで読みます。今ではあまり行なわれなくなってしまった「詩吟」なども、漢文を読むためのリズムの1つですが、漢詩でなくても江戸時代までは、漢文を読むための独特の節回しがそれぞれの藩などに伝わっていました。
こうしたリズムを復活させて身につければ、漢文はさらに読みやすくなろうかと思いますが、そうでなくても、自分なりに大きな声で読んでいると、自然に、我流ではあっても「漢文訓読調もどき」のリズムはできてくるのではないかと思います。
ところで、漢文の原典にはまったく「てんまる」はついていませんが、読んでいると「たぶん、ここで文章が区切られているのだろうな」という勘が働き、次第に視覚的に見えてくるようになります。
例えば、「也(や)」「焉(えん)」「矣(い)」「兮(けい)」「乎(こ)」などの字があると、そこで文章が切れているはずです。そして往々にしてこれらの字は「まる」の役割を果たしています。
また、「則(そく)」「而(じ)」「者(しゃ)」などがあれば、ここで一度文章が切れて、次に繫がる、つまり「てん」の部分になるでしょう。
学而時習之不亦説乎「学びて、時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや」(『論語』学而篇)
享保中有義偸焉「享保中に義偸(ぎとう(=貧しい人にお金を遣るために金持ちから金を盗む盗賊)有り」(『本朝虞初新誌』)
難しそうに見える「てんまる」がない漢文でも、やはり、「人に読んでもらわないといけない」文章には変わりません。どこで文章が切れるかという目印は、ついているものなのです。
言葉はリズム
少し、和歌を読んでみましょう。できれば、音読してみて下さい。
山桜 我か見に来れば 春霞 峰にも尾にも 立ち隠しつつ
世の中に たえて桜の なかりせは 春の心は のとけからまし
夏の夜の 臥すかとすれば ほととぎす 鳴く一声に明くる しののめ
いずれも、『古今和歌集』(905年奏上)に掲載されている歌です。「てんまる」はなくても、読めるのではないでしょうか。
でも、「読む」ためには、どうしても声に出してみる必要がありませんか?
和歌は、「五七五・七七」のリズムで作られているという原則を知っていれば、「てんまる」などなくても、和歌は、「読む」ことができるのです。
発句(ほっく)や俳句も同じですね。
野ざらしを 心に風の しむ身哉 松尾芭蕉
我と来て 遊べや親の ない雀 小林一茶
柿食へば 鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
発句俳句は、「五七五」ですから、このリズムで読めば、時には字余り、字足らずがあるかもしれませんが、基本的には「てんまる」は要りません。
漢詩はどうでしょうか。
江碧鳥逾白山青花欲然今春看又過何日是帰年
漢詩を読む時は、まず、使われている漢字の数を数えてみます。
前の例は20字あるので、5で割って、五言絶句であるということが分かれば、後は簡単です。
江碧鳥逾白 江碧にして鳥逾(いよいよ)白く
山青花欲然 山青くして花燃えんと欲す
今春看又過 今春 看(みすみ)す又過ぐ
何日是帰年 何れの日か是れ 帰年ならん
〔川は深緑色に流れ、鳥は遠く飛んで見えなくなる。山は新緑で、花は燃えるように赤く咲き誇る。今年の春も見ているうちに過ぎ去るのだろう。いったいいつになれば故郷に帰ることができるのだろうか:筆者訳〕
漢詩を含め、定型詩は「てんまる」などなくても読めるものなのです。
それは、なぜか――いうまでもなく、決まったリズムがあるからです。