アドバイスされるとムカつく...「常に悩んでいる人」が気づけない1つの感情
他人から見たら些細な出来事にも、いつまでもクヨクヨと悩んでいる人がいます。そうした「悩みが尽きない人」は、本人も気づかないほどの心の奥底に、怒りや憎しみを抱えているのです。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が解説します。
※本稿は、加藤諦三著『悩まずにはいられない人』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
本人も気づかないほど奥にある怒りや憎しみ
私は若い頃「くよくよしたって何もならない」とある本に書いたことがある。私は心の底からそう思っていた。そう思っていたのだが、私はくよくよ悩むほうだった。自分がくよくよ悩まない人間なら、わざわざこんなことを書かない。
若い頃「くよくよ」と悩んでいた時に、私は自分の心の底の、そのまた底にものすごい怒りや憎しみがあるとは気がついていなかった。そんなことは思ってもみなかった。
しかし歳をとって若い頃を振り返ると、想像以上のものすごい怒りや憎しみや恐怖感が心の底にあったことが分かる。それはまさに言葉どおり「想像を超える」量の怒りや恐怖感である。
その想像を絶するような怒りを無意識に追放しておいて、「くよくよするな」と自分に言い聞かせても何の効果もない。
くよくよ悩むのは、じつはそれなりの理由がある。もともと自分の中に悔しい気持ちがある。もちろんそれに本人は気がついていない。
もともと甘えたくても甘えられない心の葛藤があった。無意識の領域では甘えたい、甘えたいと願っていた。しかしそれは叶わぬ願いである。
もともと、はじめから現在の外界の状況と関係なく、心の中ではくよくよしていた。そのくよくよを「意識的に体験していないだけ」だったのである。それがある外界との接触で、別のこととして意識的に体験しているに過ぎない。
たまたま上司とうまく挨拶ができなかった、あるものを食べて胃を壊してしまった、買った株が下がってしまった、試験の成績が悪かった、財布を落としてしまった、恋人にうまく気持ちを伝えられなかった...日常生活には無数なほどの小さな失敗がある。それをいつまでもくよくよと悩んでいる。
問題は上司とうまく挨拶ができなかったことでも、試験の成績が悪かったことでもない、あるものを食べて胃を壊してしまったことでもない。胃を壊して「あれさえ食べなければ」とくよくよと悩むが、くよくよと悩む原因はあれを食べたことではない。
もしそうであれば「くよくよしたって何もならない」で解決する。
隠れたる真の原因は、甘えたくても甘えられない心の葛藤である。満たされない退行欲求である。自我価値が傷ついた悔しさである。だから「くよくよしたって何もならない」と思い、「くよくよすまい、悩むまい」と意志してもくよくよといつまでも悩んでしまうのである。
くよくよしていても解決にならないと分かりながらも、くよくよする自分をどうにもできないからである。それは、その人が満たされない欲求や隠された怒りに動かされているからである。無意識の必要性に振り回されているからである。
悩みが支えなので解決されてしまったら困る
アドバイスはつねに、「現実の苦しみ」を解決するためのアドバイスである。
しかし悩んでいる人は、別に現実の苦しみを訴えているのではない。「心の苦しみ」を訴えているのである。現実の苦しみは関係ない。もともと解決を求めているのではない。大げさに悩んでいるから気持ち良いのである。
嘆いている人は「私はいま、こんなに苦しいのだ」ということを訴えているのである。それが心の底にある、感情の間接的表現である。具体的な解決方法は感情表現の場を奪う。
苦しみを訴えられた側は、ただ聞くか、「すごいわねえ」と言うことを求められている。悩んでいる人は「すごいわねえ」という賞賛を求めているので、具体的な解決方法を探しているのではない。
たとえば夫が家で悩んでいる時も、別に妻にアドバイスを求めているのではない。悩んで相談に来る人で、本当に相談に来ている人はじつはほとんどいない。誰もアドバイスなど求めていない。求めているフリをしているだけである。
「この悩みを解決するのに協力してくれ」と言っているのではない。アドバイスする人はそこを勘違いする。
退行欲求で生きている人と、成長欲求で生きている人の出会いはトラブルを生むだけのことがある。それなのに解決方法をアドバイスをされたら、感情の捌け口をふさがれたようなものである。
とにかく前向きな解決策を言われたら、悩んでいる人は頭にくる。相手からの「こうやって助けてあげる」という援助の姿勢も頭にくる。そうして助けられたら、いま悩んでいることの意味がなくなる。
確かに悩んでいる人はがんばった。そしてそのがんばったことを認めてほしい。その時に「こうしたらもっと良くなる」というアドバイスは、怒りを生むだけである。落ち込むだけある。そんなアドバイスをされたら「誰も分かってくれない」といよいよ相手を恨むだけである。
だから「よくがんばっているね」という言葉は癒しになるが、「こうしたらよい」という改善の言葉は怒りを生む。
悲観的考え方を延々と言っていることが感情表現であるから、「そんなこと意味ないからやめなさい」と言われてもやめられない。それどころか、「意味ないからやめなさい」と言われたことが不愉快になる。自分の感情表現を否定されて不愉快にならない人はいない。
「いくら嘆いていても事態は変わらない」という正しいアドバイスが、相手を怒らせる。そしてその怒りを直接的表現できないで、間接的表現になる。
つまり親身で正しいアドバイスを受けた側は、いよいよ不愉快になる。いよいよ憂うつになる。いよいよ嘆く。アドバイスされたほうの人の気持ちは、雪の上に放り出されて、寒そうにしたらばかにされた時のような心境である。
誰も励ましてくれなかったから、人と接するなかでどう生きていいか分からない。人間関係のなかでの生き方が分からない。
悩んでいる人は生き方を忘れた人なのである。嘆きはdead endである。行き詰まりである。
機能しない家族が無力感を与えた(Robert A. Becker著『Addicted to Misery, The Other Side of Co-Dependency』Health Communications, Inc)。彼らは家族という言葉は知っているが、自分が実際に家族を体験していない。だから心理的に成長していない。
ありのままの自分が許されて、成長するべく励まされていない。誰も自分を守ってくれなかった。甘いという言葉は知っているけど、甘いものを食べたことがない人と同じである。
嘆いている人は解決する意志がないから、ただ不満を言っていればいい。その人は過去にいる。いまを生きられない。過去のある時期で生きることが止まっている。過去の清算ができていない。
「なんてかわいそうに」という注目がほしい。同情では解決しないのに同情がほしい。退行欲求とはそういうものである。
文句を言うことが主題で解決する意志はない。相手の言うことを聞こうという意志がない。素直さがない。
先に触れたように悩んでいる人は、小さい頃に周囲の人から成長する能力を奪われた。言いたいことも言えなかった。ただ我慢に我慢を重ねて生きてきた。
悩んでいる人自身が、自分の隠された敵意や隠された憎しみに気がついて、その処置を考える以外に悩みの解決方法はない。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。