子どもの「名づけ」は究極のおまじない
おせち料理や、七夕の笹飾りなど、今に伝わるお祭りや年中行事には、その家や家族の幸せや繁栄を願った、おまじないの文化や風習が今もたくさん残っている。
その中でもぼくが、これぞおまじないだ、と思うのは子どもの名づけだ。おまじないが大切な人を守り、その人の幸せや繁栄を願うことだとしたら、生まれてくる子どもの幸せや、その将来を思い浮かべてよりよい名前を考える、親の気持ちこそ、最大のおまじないの儀式だと思う。
子どもの将来を考えて、名前をつづる文字の意味や画数を考えたり、とくに最近のキラキラネームは、テレビやアニメで活躍するアイドルやキャラクターのイメージにあやかろうとするもの。
おまじないは何かの幸せを引き寄せる縁起担ぎの儀式なのだから、子どもの名づけは、ぼくたちが、知らず知らずにしている立派なおまじないなのだろう。
またラグビーの五郎丸選手の祈りのポーズや、スポーツアスリートのルーティン、勝負下着や黄色いサイフ、縁起のよいスマホの待受画像というのも、やっぱりおまじない。
ぼくたちは、知らず知らずのうちに身近におまじないを取り入れて、幸せに向かう一歩を踏み出す勇気をもらっているのだろう。そういう意味でおまじないは、幸せのイメージトレーニングだ、とマークは思う。
おまじないによって自分の求める幸せと真摯に向かうことで、より幸せが具体的なイメージとなって、その幸運を引き寄せるパワーを得られるのだ、と考える。
おまじないと「魔術」は、似て非なるもの
おまじないと同じ願望成就を願う手段に、魔術や魔法というものがある。魔術はおまじないと同一視されることが多いが、ぼくは、この2つは、似て非なるものと考えている。
そもそも魔術や魔法は魔力という「魔」の力を利用するもので、人類の文化が進んで宗教が生まれ、神と悪魔の概念が生まれて以降のものなのだ。
おまじないは、家族や子孫の健康や繁栄を願うもの。そして、それは料理や薬草の知識として、一家を守る主婦や女性に代々伝わっていった。
そんな伝承から不思議な力の象徴として、妖精や精霊などの伝承が生まれたのは容易に想像できるが、やがてその不思議な力の伝承は、男性社会の中で権力を掌握するために取り入れられて、神や悪魔や宗教の概念が生まれ、妖精や精霊の伝承は、神々の力や神話へと発展していった。
そして、おまじないは権力を握った宗教家や、王侯貴族に雇われた魔法使いや魔術師によって研究され、富や権力を手に入れたり、敵を殺し滅ぼすための、呪術や錬金術のような、権力者の欲望を満たすための魔法や魔術として作り直されたのだ。
やがて中世になってキリスト教が世界を席巻すると、魔法や魔術は、宗教の中に神学や儀式として取り入れられたが、おまじないや、それを継承する女性たちは魔女として、悪魔の術を使うとされて糾弾された。それが魔女裁判なのだ。
だから、ぼくは魔法とおまじないの違いとして、富や権力という個人の欲望を満たしたり、敵や意に沿わない人を呪って陥れようとする願いの儀式や方法を、魔術や魔法。
家族や知り合い、その他みんなの健康や、安全や幸運を願う思いやりの儀式や方法を、おまじないと呼ぶように定義づけしようと思う。
もちろん、みんなの中には自分も含まれていて、自分の幸せをみんなと分かち合うのがおまじない。誰かを犠牲にしたり、幸運を独り占めするのは魔法かなと思う。