なぜ、私だけが...心理学者が思う“幸せの波にいつも乗れない人”の共通点
2023年06月22日 公開
嘘をついてはいけない、不幸から抜け出すためには行動すべき――。幼少の頃から当然のように刷り込まれてきた価値観に、窮屈な思いを抱いている人は少なくないだろう。
臨床心理学者で、京都大学名誉教授であった河合隼雄氏は、職業柄さまざまな人の嘆きや不幸と向き合い、人間の幸福について考えてきたという。
本稿では、平安時代の代表作「源氏物語」を例に、幸福を身近に感じるためのヒントをご紹介する。
※本稿は、河合隼雄著『河合隼雄の幸福論』(PHP研究所)を一部抜粋・編集したものです。
人生は思い通りにはいかないもの
大切な会合で絶対に遅れてはならないときがある。そんなときは早くから準備しておくとか、相当早めに家を出るとかしなくてはならない。
遅れてはならないと前日から気にしているくらいなのに、電話で話し込んでいるうちに、ふと忘れてしまったり、何かほかのことに気をとられて、「しまった」と思う。
遅れて行って何か言い訳しなくてはならない。ふと忘れていまして、などとは、とうてい言えない。
あるいは、大切な集まりでぜひ出席しなくてはならないのだが、人に言えぬ理由で出席できないときがある。だれにも人に言えない理由というのはあるものだ。ほかに会合があるなどと言えば、お前はこの集まりよりほかに大切なことがあるのか、と言われそうである。
ともかく、言い訳とか口実とかいうものは難しい。そんなことにならないように気をつけろというのが道理と思うが、なかなか人間の生活は理屈どおりいかない。
口実の文化は平安時代にも
最近、平安時代の物語を読んでいるが、そのなかで「夢」が口実として使われているのがちょいちょいあって、面白く思った。
当時は、夢を大切に思う人が多く、夢のお告げに従って行動したり、夢占いを職業とする人があったりするほどであった。そのようななかで、夢が口実に使われる。
たとえば、『源氏物語』で、源氏が紫の上の幼い姿をはじめて見たとき、その姿に心を惹きつけられるが、なにしろ相手はあまりに幼くて、話をどうもっていっていいかわからない。
紫の上の後見役の僧に会うと、僧は有名な源氏が来たので嬉しくて仕方がない。早速にこの世はいかに無常であるかと説教をはじめる。源氏は拝聴のふりをしているが、気が気でならなかったろう。
話のとぎれるのを待って、「ここに住んでいるあの方はどなたですか。常日ごろ見る夢でわけのわからぬのがありましたが、あの方を見るとはたと思い当たることがありまして」という。僧は笑いながら「いや、これは出しぬけな夢の話で」と言う。
しかし、結局のところ話はすすんで、源氏は幼い紫の上の後見人となって、彼女を引き取ることになる。僧はもちろん、夢が口実と知っている。しかし、それが噓か真かなどと言わず、笑いのなかに自分の気持ちを表現しながら、話を円滑にすすめている。
『とりかへばや物語』のなかでは、主人公が急に思い立って吉野の山奥に行くところがある。そのときも「夢見が悪かった」というのが口実に使われる。それを聞いた人が信じるか信じないかはあまり問題ではない。ともかく、そのような口実によって事がもつれたりすることはない。