古代からパワーストーンはお守りや魔除けとして重宝されてきた歴史を持ちます。しかし、なぜこのように人々は天然石の効果を信じるようになったのでしょうか? 水谷奏音さんがパワーストーンの基本知識を教えます。
※本稿は、水谷奏音『数秘術×パワーストーン〜願望実現の最強ツール〜』(説話社)の一部を再編集したものです。
パワーストーンとは
パワーストーンとは、天然石の呼び名のひとつであり、日本発祥の言葉となります。天然石は、人為的なものではなく、地球と一緒に形成された、いわば天然のアイテムです。
いくつもの偶然が重なり、何十億年とかけて奇跡的に結晶化したものですから、それだけ大自然のエネルギーをぎゅっと凝縮しているといえるでしょう。
パワーストーンと呼ばれているのは日本だけで、いつからそう呼ばれているのかなど、実は不明でもあるのですが、大自然のパワーが吸収されているということから、いつしかパワーストーンと呼ばれるようになり、それが定着していったのだと思います。
ちなみに欧米では、ジェムストーンやクリスタルなどと呼ばれています。
天然石の歴史
天然石は、地球と一緒に形成されたため、その誕生ははるか昔です。人類が誕生したときには、すでに存在していたといえます。そのため紀元前より、人類と石は深く関わってきました。
さまざまな民族のあいだで、信仰や魔除けの儀式に用いられたと思われる石が遺跡から発掘されていますし、イギリスのストーンヘンジなど巨石を組み合わせた遺跡なども、いろいろなところに残っています。謎のベールに包まれてはいるものの、それらも、神聖な儀式との関連があると唱えられています。
また、ツタンカーメンのマスクに、ラピスラズリが使われているのは有名な話です。古代では、石があの世へ案内してくれるという考えのもと、統治者が亡くなると、一緒に墓に埋葬されました。そのため、墓からはたくさんの石が出土しています。
石はほとんどの文明社会で、地位を表す象徴でもありました。身分の高い人たちは、自分の価値を表現するために、宝飾品として石を身につけていたのです。
クレオパトラは、マラカイトを砕き、アイシャドウとして使用していました。美しく見せるためはもちろん、一説には、目の病気を防ぐために使用していたなどともいわれています。それは、石には特別な力があると信じられていたことも関係しています。
天然石が魔除けやお守りとされた理由
古代の人たちは、世界は自然界の精霊で満ちていると信じていました。生物、無機物を問わないすべてのものに、霊魂、もしくは精霊が宿っていると考えていたのです。
存在するすべてのものに、生命の存在があるという考え方を「アニミズム」と呼びます。当然、天然石にも精霊が宿っており、特別な力あると考えられていたのです。
そのため天然石を身につけると、災難から身を守ってくれる、または幸運を引き寄せてくれると信じて身につけていました。これが、天然石が魔除けやお守りとされた原点だといえるでしょう。
日本と欧米における天然石の認識
日本で「パワーストーン」というと、令和になった現在でも、やはりスピリチュアルな意味合いが先行しているイメージではないでしょうか。ちょっと怪しいという、オカルト的な印象に近いといえるかもしれません。
それは、パワーストーンの効果が医学的、科学的に認められているものではないからだと思います。
では、欧米ではどうでしょうか。実は、イギリスなどにおいては、未病対策のひとつとして「クリスタルヒーリング」と呼ばれるセラピーが、代替医療として適用されています。天然石が、医療の分野で活用されているという現実があるのです。
パワーストーンとのつきあい方
パワーストーンと、どのようにつきあっていけば、そのエネルギーをより味方につけることができるのでしょうか。
残念ながら、パワーストーンそのものに魔法のような力があって目標や夢を叶えてくれる......ということはありません。自分からはなにもせず、持っているだけでパワーストーンが叶えたい未来や希望を勝手に引き寄せてくれるわけではないのです。
とはいえ、石と自分の波動が共振し、心身ともに正常な状態になれば、思考が前向きに変わり、行動していくことが可能となります。
そのためには、石を普段から目にしたり、触ったり、身につけたりすることが大切です。なぜならその行為によって、石への思い入れが反復され、自分の夢が自然に思い起こされるからです。
自然と潜在意識に働きかけがあり、どんどん意識化されることで行動につながり、目標や夢が叶うという結果につながる可能性は大いにあるといえるでしょう。パワーストーンは、持つ人の願いを叶える「きっかけ」をサポートしてくれるアイテムなのです。
そのため、石に過大な期待や依存は禁物。もし、「せっかく購入したのに効果がなかった」と嘆いた経験がある人なら、自分はなにもしなかったのに石に頼りすぎていた、ということも考えられるでしょう。