昨今は小説、映画、音楽などあらゆる分野のコンテンツがあふれているが、ライター・ブロガーで『ファスト教養』著者のレジー氏は、世の中には「コンテンツヒエラルキー」のようなものがあると指摘する。我々はエンターテインメントと教養にどう向き合えばいいのか、東京女子大学学長で『教養を深める』著者の森本あんり氏との対話から考える。構成:編集部(中西史也)
※本稿は、『Voice』(2024年5月号)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
大学生は古典的な教養を求めていない?
【レジー】森本さんは著書『教養を深める』(PHP新書)で、四人の識者との対談を通じ、本当の教養とリベラルアーツとは何かについて論じています。私が書いた『ファスト教養』(集英社新書)の論点も随所に登場し、ファストフードのように手軽に教養を得る姿勢について縦横無尽に議論が展開されていました。
私は音楽ライターであるとともに会社員でもありますが、今回はアカデミアでリベラルアーツを実践してきた森本さんと、「ファスト教養」についてあらためて対話できればと思います。
【森本】ありがとうございます。私が本のなかで対談をしてきた五木寛之さん、藤原正彦さん、上野千鶴子さん、長谷川眞理子さんはいずれも、会社組織とは離れて「知的商売」をしている意味では同じグループです。
一方でレジーさんは畑が違うし世代も違うので、これまでの対談でいちばん怖いお相手です。楽しみな半面、異種格闘技のようにどこからパンチが飛んでくるかわからないので、ドキドキしています。
【レジー】私は大学ではマーケティングを専攻していて、もともと学術的に教養を深めていたわけではありません。ですので『ファスト教養』執筆時も、アカデミアにおける教養やリベラルアーツの議論に立ち入ることなく論をどう組み立てるか考えていました。
森本さんが『教養を深める』で訴えていた「理解できる限界を知ること」は、教養と向き合ううえで大切なメッセージです。昨今は知ることで全能感に浸ることを押し出すようなコンテンツもあふれています。そんななかで「知の限界」を示されたことは、私としても非常に共感するところです。
一方で、一般のビジネスパーソンや若い世代に、古き良き教養を正面から唱えても響かないのが現実ではないか、という気持ちもあります。森本さんが大学で教鞭を執られるなかで、学生が「教養は結果的に得られるものではなく身につけるもの」などとファスト化していると感じますか。
【森本】学生と話している限り、ファストではないクラシカル(古典的)な教養に憧れる姿勢は、いまもあまり変わっていないように思います。私のよく知っている学生がそういう傾向にあるからかもしれませんが。
【レジー】クラシカルな教養を培う学生が、たとえば就職活動のタイミングで、就職に役立つ情報をファスト的に求める周りの学生とのギャップを感じることもあるのではないですか。
【森本】ええ、学生たちも必死に学問をやっても仕事にすぐ結びつくわけではないという現実はわかっています。私も学生に「あなたたちが学んだことは、入社後すぐ役に立つわけではない。でも30年後に偉くなったときに活かされるかもしれないよ」と伝えています。
【レジー】なるほど。将来の自分を想像するという視点は、教養を考えるうえで重要になりそうです。
有象無象のコンテンツへの向き合い方
【森本】ご著書『ファスト教養』をあらためて読んで印象深かったのが、レジーさん自身の葛藤です。忙しいビジネスパーソンが手っ取り早く知識を得たい気持ちはよくわかる、と書かれています。
また音楽を中心としたカルチャーの教養に触れてこられた一方で、自身もファスト化に加担していたと懺悔されている。
AKB48は選抜総選挙によってメンバーの序列を可視化することで人気を加速させ、音楽チャートの上位を席巻するまで上りつめたけれど、ポップミュージックの秩序を乱した。こうした「AKB商法」は新自由主義的な自己責任論と親和性が高いわけですが、レジーさんは総選挙のCDを多数購入することでその片棒を担いでいたと。
【レジー】はい、同じCDを何枚も買っていましたし、総選挙に向けた解説記事を音楽メディアに毎年のように寄稿していました。
【森本】その経験を経て、いまあるべき教養の形をどのようにお考えですか。ご著書の第6章「ファスト教養を解毒する」では、「自分だけの古典をもとう」「多くの本を読むよりも、一つの本を繰り返し読もう」「トレンドを追わない」など、頷ける部分が多々ありました。
【レジー】ファスト教養への処方箋の部分は、良くも悪くも「案外まともなことを書いているな」とよく言われます(笑)。「ポストファスト教養」のあり方については、著書を書き終えてからも模索しているところです。
まず、私は自分が触れてきたもので「ファスト教養」と括られるようなコンテンツ自体をすべて否定する立場はとりたくないと思っています。巷で流行っているビジネス書や自己啓発本にすべて価値がないわけではなく、その価値観だけに染まってしまうのは危ういということです。
では「ポストファスト教養」の手段は何かと言えば、メディアとしてはYouTubeやポッドキャストでも構いません。見た目は刺激的な「チャラい」ものでも、中身の伴っているコンテンツは存在します。
会社員でもある私にとっては、教養といえども古典、もっと言えば紙の本だけではなく、テクノロジーの変化を無視するべきではないと考えています。
【森本】私は『教養を深める』の藤原正彦さんとの対談のなかで、リベラルアーツは「What(何を学ぶか・教えるか)」ではなく「How(どのように学ぶか・教えるか)」だと語りました。レジーさんはまさに「How」への問題意識が強いのですね。
【レジー】私は会社員としてビジネススキルを高める必要性を感じながら、他方でエンターテインメントやソーシャルメディア環境の激変に接してきました。アクセスできるコンテンツの量が爆増する状況を楽しみつつ、時に辟易もしながら、アカデミアの側にいる森本さんとは違う山から近い結論に向かってきたと言えるかもしれません。
【森本】私はクラシカルな教養のイメージをもたれているかもしれませんが、自分にもファスト教養的なものが入ってきているなと感じています。
レジーさんの本で取り上げていた映画『花束みたいな恋をした』(2021年)の作中に出てくる小説集『茄子の輝き』(滝口悠生、新潮社)が気になって、読んでみたんです。
日常の描写が貴重で、まるで「文章読本」のようですが、話がなかなか進まない。読みながら「だから何なんだよ」とツッコんで、ホラー小説みたいなストーリーの展開を期待してしまうのです。自分はもう純文学を楽しめる人間ではなくなっている、と気づかされました。
【レジー】小説でも映画でもそうですが、起伏のわかりやすい作品は大衆的でファスト的、淡々とした世界観の作品のほうが「通」と見なされがちな傾向があると思います。私も学生の頃は背伸びして、通好みの作品をポーズとして観ることもありました。
音楽でも、音楽ファンを自称する人たちの間では大衆性の高いものほど「にわか」だとされ、インディーズや海外のバンドのほうが好まれる空気があります。
そうした「コンテンツヒエラルキー」のようなものがどの世界にもあって、本だと「岩波新書を読んでおけ」と言われるように、ポップミュージックでは「ビートルズくらい全部聴いとけ」となるわけです。
【森本】ええっ、ビートルズも教養なのですか(笑)。
【レジー】ポップミュージックのなかでは、ですね(笑)。ただ、そういう声に押されて「クラシック」を聴いたとして、それを心から良いと思えるケースは少ないでしょう。
いろいろな音楽を聴いて自分なりの価値観が定まってきたところで、古い作品の良さを初めて理解できるようになるというのが私の実感です。だからいまの若い人には、無理して昔の教養的な音楽を聴かなくても、自分の好きな楽曲を堪能してほしいと思います。