些細なことで不愉快になってしまう、大したことではないとわかっていても不安で仕方ない、人から認められたいと強く思う...。それは「幼少期の親子関係」が原因になっているかもしれません。小さい頃から軽く扱われ、理解されなかった心の傷が、大人になっても残り続けているのです。加藤諦三さんが語ります。
※本稿は加藤諦三著『無理をして生きてきた人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
トラウマと扁桃核
脳の扁桃核が過剰な覚醒状態になっていると、些細な出来事が次々に傷の瞬間を意識に保持し続ける。興奮しやすい扁桃核を持って生まれた子が、不幸な幼少期を送った場合、そこから抜け出すには時間がかかる。大人になって過剰反応とか異常反応する人になる。
興奮しにくい扁桃核を持って生まれた子が、幸せな幼少期を送った。この両者の日常生活が客観的には同じでも、2人はまったく違った世界に住んでいる。
幼少期の体験が「情動の神経回路」に記憶として焼き付く。トラウマは扁桃核に引き金的な記憶を残す(註1)。ナチスの強制収容所の恐怖は50年たっても消えないという。「記憶に凍結された恐怖」という言い方をしている。神経の警報ベル設定値が異常に低くなっている。ちょっとしたことをものすごいことに感じてしまう。人のすることに過剰に反応する(註2)。
(註1)EQ, Daniel Goleman, Emotional Intelligence, Bantam Books, 1995. p.202
(註2) ibid., p.203
小さい頃から軽く扱われて
小さい頃、人からそれにふさわしい扱いを受けなかった。その怒りや不満を抑圧していた。その結果、対象無差別に褒められたい人間になった。
抑圧したものを今、接している人の態度で再体験するようになった。そんな人の態度など無視すればいいのに、無視できないで、心が大きく揺れ動く。関係のない人の態度が引き金になって、昔の屈辱感がこみ上げる。そして心がかき乱される。
ドイツの精神科医フロム・ライヒマンがいうように、小さい頃に母親から愛されなかった人は、対象無差別に人から愛されたい。分かってもらえない人から、分かってもらおうと努力する。そのことで感情が揺れ動いてしまう。悔しい気持ちになる。悔しがることではないのに悔しくなるのは、小さい頃から気持ちを理解してもらっていないからであろう。
小さい頃、誰からも気持ちを理解してもらえないで、悔しい気持ちを抑えていた。それが根雪のように心の底に積み重なっている。その積年の恨みに今、関係のない人の一言で、火がつく。不愉快になることではないのに、不愉快になる。
「八風吹けども動ぜず天辺の月」という言葉がある。その正反対である。小さい頃に一生懸命努力した。しかしそれを認めてもらえなかった。兄弟の中でいつも不公平な扱いを受けていた。それも我慢した。なにもかもが我慢、我慢で成長して、大人になった。 心の底には、計り知れないほどの悔しい気持ちが抑圧されている。
単純化して言えば、小さい頃からいじめられて生きてきた。屈辱の上に屈辱が重なり、その重荷で心は倒れそうになっている。そのことに気がつかないで、長年にわたって生きてきた。意識的には心は屈辱に麻痺している。しかし心の底ではちゃんとそのことは刻まれている。
今のかき乱される感情は、小さい頃に闘うべき時に闘わなかったツケのようなものである。闘わないで我慢して、怒りを抑圧して生きてきた「ツケ」である。小さい頃から軽く扱われてきた。悔しかった。その悔しさを抑圧して、「良い子」を演じてきた。
その悔しさを誰も理解してくれなかった。あまりの屈辱に、心は屈辱に麻痺していながら、孤独の中でおびえて生きてきた。そうした中で今、怒りで心をかき乱されるほどのことでもない事柄に、心はかき乱される。
感情的に振り回されるようになったのは、それだけ解放されてきたということでもある。無意識にあるものが、今の体験で火山の噴火のように動き出したのである。
しかし孤独だから、怒りながらも恐れも大きい。怒りながらも、なにか大変なことになるのではないかとおびえている。直接的に表現できない。
不安な時はどうしたらいいか
心配や不安な時はどうしたらいいのか?
人は不安や心配な時は、考えないようにしようと思っても考えてしまう。夜も昼も、ふと時間が虚しく過ぎていくと考える。そして、不安や心配ごとが雪だるまのように膨れあがっていく。そして、その不安や心配ごとは、いつしかきっと、そうなるに違いないと思うようになる。憶測が次第に現実みを帯びてくる。いてもたってもいられなくなり、やがて恐怖に変わってくる。
あなたはなぜ心を閉ざしたのか? そこを自分で分析することである。
幸せは悩みから見つける! 背伸びしすぎて挫折した苦しみがある。時を待つことで幸せを見つけた喜びもある。深く悩む人ほど生きる力が大きい。今になって改めて思い起こすと、あの時の失敗は決して失敗ではなかったと思う。
「この悩みさえなければ」と「この悩み」に心を奪われてその日を過ごしている。「あーでもない」「こうでもない」と、いつまでも悩んでいる。
親は自分のしたことに気がつかないまま、「あの子は自由に生きたから」と言う。親は現実と触れていない。心理的不健康な人である。親が自分の見方を変えないのは「自分の価値が脅かされるのを防ぐ」ためである。なぜ子供の不幸を否定するのか? 親は自分の価値剝奪におびえているからである。