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起源は東南アジアの山岳民族? 職人が教える「江戸前寿司の歴史」

小川洋利(寿司職人)

2024年08月09日 公開

寿司職人の小川洋利さんは、日本のすし文化を全世界に広めるため、世界50カ国以上にわたって、すし指導員として外国人シェフに調理指導をされています。本稿では、小川さんが海外で目撃した「驚きのSUSHI事情」について、書籍『寿司サムライが行く! トップ寿司職人が世界を回り歩いて見てきた』からご紹介します。

※本稿は、小川洋利著『寿司サムライが行く! トップ寿司職人が世界を回り歩いて見てきた』(キーステージ21)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

寿司の語源・由来 「寿司」「鮨」「鮓」の違いって?

「寿司」という言葉自体は、酸っぱいものとしての意味で「酢し」とよばれたのが語源です。

「寿司」にも「寿司」「鮨」「鮓」などの表記がありますが、違いをご存知でしょうか。「寿司」は江戸時代中期から使われた当て字だそうです。「寿(ことぶき)」を「司(つかさ)」どるという縁起をかついだ当て字で、全てのスシの総称です。

酢と調味料とを適当にまぜ合わせた飯に、魚介類などをとりあわせたもので、おしずし、はこずし、にぎりずし、まきずし、ちらしずしなどさまざまなものがあります。握ったり、型に入れたりして作るものだそうです。

「鮨」は魚醤、つまり調味料の一種を表す言葉でした。中国では魚の塩辛を意味する文字ですが、「鮓」と混同されて使われるようになった漢字だそうで、にぎり鮨、押し鮨、ちらし鮨、箱鮨、棒鮨などという使い方をします。

「鮓」は、魚を発酵させて作るものです。古くから行われてきた手法で、塩や糠に漬けた魚や発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味します。実はこの言葉が「すし」を表す漢字として最も適切と言われています。鮒鮓、鮎鮓、鯖鮓など......。「馴(な)れずし」がこれに当てはまります。琵琶湖地方の名産の「鮒鮓(ふなずし)」はこの代表格です。

関東は鮨を、関西では鮓を使うところが多いようです。鮨と鮓の文字の使い分けには、明確な区別がないのが現状のようです。日本では昔(奈良時代)、鮨・鮓は魚介の漬物のことを言いました。めでたいときは「寿司」を使うのがよいですね。そして今では世界共通語の「SUSHI」へと広がってきました。

 

寿司の発祥は東南アジアだった!

寿司の起源は、紀元前3世紀ごろに東南アジアの山岳民族が、淡水魚を材料に米で発酵させて漬けたものだとされています。それから中国を渡り、紀元700年代に日本に伝わりました。日本で今もなお現存する「鮒鮓」が最も古い寿司とされています。

奈良時代に、近江(現在の滋賀県)の琵琶湖でとれた鮒を塩漬けにして、飯を重ね漬けにし自然発酵させたもので、乳酸菌の働きで魚を保存し、食べやすくした食品です。また、鮒鮓は朝廷に特産物として近江から献上されたとも言われています。

米、稲作の伝来とともに発酵食品がアジアから伝えられ、日本で鮒鮓から進化し、文化とともに適度な発酵食品が生まれ、飯とともに食べる「熟(な)れずし」や釣瓶桶に漬ける鮎の「釣瓶寿司」などが生まれ、各地に広がりました。

 

室町時代に生まれた熟れ寿司

室町時代になると、お寿司の革命といってもよいほどの急激な変化がありました。炊飯方法が「蒸す」から、「炊く」に変わり、1日2度だった食事回数も3度に変わりました。それが当時の先端的な食文化でした。

この頃に「生熟れ寿司」または「半熟れ」ともよばれる寿司が生まれます。この寿司はいわゆる「熟れ寿司」のように長期間漬け込むのではなく、比較的短い期間で漬けあげ、飯に酸味が出るか出ないかのうちに食べるものです。これだと魚はまだ生々しいのですが、飯も食べられます。

したがって、塩味と酸味のついた飯そのものもたのしまれるようになり、漬け込む材料も魚貝類以外に野菜や山菜など、いろいろな種類に広がってきました。

 

一週間で食べられるようになった飯ずし

日本の寒冷地、東北・北海道地方で厳冬期に作られる「飯ずし」は日本を代表する郷土料理として親しまれています。「飯ずし」は鮭、ニシン、ハタハタなどの魚を飯や野菜とともに漬ける早熟れ寿司です。

その後、時代とともに醸造技術も発展し、発酵を早めるために酒や酒粕、糀などを使った寿司が誕生しました。塩と酢を合わせ、魚の切り身などを箱に入れ押した寿司なども出回るようになり、代表的なものでは関西の箱ずし、上方鮓(かみがたずし)などがあります。

江戸時代後期には酢が一般庶民にも普及し、魚と飯と酢を使いすぐに食べられる「早ずし」が誕生し、さらに手で握り圧力を加えた「にぎり寿司」が誕生しました。もともと発酵食品であった寿司は、酢の普及により、現代の進化した寿司に生まれ変わりました。

 

両国から生まれた江戸前寿司

鎖国が関係していた東京発祥の江戸前寿司は、今からだいたい300年近く前、江戸時代のにぎり寿司が始まりだといわれています。これには、鎖国が影響していました。このときから生魚を食べるようになったと言われています。

この鎖国時代に、海外からのものを一時シャットアウトしていました。キリスト教などの宗教が入ってきたなかで、日本の仏教では、4本足の動物を食べることができませんでした。そのときに、海のものを食べる、魚介類を食べるようになってきました。

そして、麹を使った醤油、酢、酒、みりん、味噌、これらのものを使い生魚を漬けることによって、バクテリアなどによる腐敗を防いで食べていました。当時、冷蔵庫がなかった時代ですから、そのような工夫をしてだんだん生魚を食べる習慣が増えてきたといわれています。

 

華屋与兵衛と江戸前寿司

江戸前寿司は、にぎり寿司を中心とした江戸の郷土料理で、東京湾でとれた魚介類を使って、寿司にしたものを言います。にぎり寿司を初めて作った職人は福井県出身の「華屋与兵衛」という寿司職人で、両国の橋の袂の屋台で売っていたのが発祥だとされています。

それまでのお寿司はケラ玉寿司といって、箱に寿司を詰めて酢で締めた箱寿司や、火の通したものを形にはめて作っていました。これが俗にいうバッテラ寿司や、関西寿司や大阪寿司とよばれるものです。江戸に住んでる人たちはみんな気が短くて、すぐに食べたがるので、華屋与兵衛さんが、火を通したり酢で締めたりせず、鮮度のよいままご飯にのせる「にぎり」を考案しました。

今から200~300年前の江戸時代の話です。当時、与兵衛のことを弥助と呼んでいました。寿司職人のことを「弥助」とよぶことがあるのはこのことからです。

 

本来の江戸前寿司はマクドナルド

昔はお酒を飲むのは蕎麦屋でした。蕎麦屋でお酒を飲んで、帰りの小腹が減ったときに、屋台で寿司を1個2個食べて家に帰っていたそうです。当時は、寿司はファストフード感覚、マクドナルド感覚で売られていました。

最近の寿司屋は居酒屋みたいなお店が増えてきてますね。本来の寿司屋は酒を飲むところではなかったのです。昔の江戸前寿司は、蕎麦屋で飲んだあとに、小腹が空いたら寿司屋に寄って、2、3個パパッと食べて帰るのが粋な客だったそうです。

蕎麦屋には椅子があるのでのんびり酒を飲む人もいましたが、寿司屋は椅子がなく「酒をくれ」と言うと「蕎麦屋に行ってくれ!!」と言い返されるほどだったそうです。お酒を飲めるようになったのは、戦後のごく最近のことで、屋台から椅子がついた店舗に変わってからなのです。

昔の江戸前寿司は、おにぎりぐらいの大きさで、にぎりしか置いていなかったそうですが、今では、刺身や焼き物、色々なつまみがでてきますよね。つまみだけ頼んで、酒を飲んで帰っていくお客様もいます。ですから、そういうお客様にも、たまにはお茶でにぎり寿司を味わっていただけたらと思っています。

 

江戸前寿司が全国に広まった理由

前に述べたとおり、江戸前のにぎりは、一個がおにぎりのように大きかったから、それを2個ぐらい食べるとお腹いっぱいになりました。そういうところから進化していって、大正時代あたりからお店で食べる寿司店が誕生しました。

東京で生まれた江戸前寿司が全国に広まったのは、関東大震災によるものといわれています。このとき、寿司店の多くが店をたたみました。東京の復興が難しく、地方から東京に来ていた職人や板前が、自分の故郷に戻って開業し、その地方でお店が広まったといわれています。

 

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